2020年に世界を駆けめぐった新型コロナウイルス禍は、我が国にも大きな影響を与えた。医療現場はその最も大きな影響を受けた場所と言っても過言ではない。陽性反応者やその家族だけでなく医療従事者にまで差別が及ぶ。病院を辞める医師や看護師も多く生まれている。また、新型コロナ患者の治療に取り組んだ結果として赤字を余儀なくされ病院の経営に深刻なダメージを負う。
これは新型コロナ禍を引き金として、我が国の医療制度の脆弱さを炙り出されたといえる。これまで、我が国の医療制度・医事法は、真に国民・市民の命と健康を守るものであったといえるであろうか。患者の権利保障と医療従事者の権利保障という視点が欠けている医療制度・医事法が、コロナ禍をめぐる危機的状況の背景の一つとして挙げることができるのではないであろうか。コロナ禍は我が国の医療制度の脆弱性の延長線上に存するものではないであろうか。
患者と医療従事者の権利保障を基軸に据え、我が国の医療制度の脆弱性の原因を検討し、既存の関係法規の概説にとどまることなく、医療制度・医事法の改革の道筋を提示する。
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新型コロナウイルス禍で露呈した患者の人権なき医療の脆弱性 |
【はしがき】
当時九州大学でご指導を受けていた内田博文先生に勧められ,ハンセン病療養所菊池恵楓園をゼミの学生と一緒に初めて訪ねたのは1996年のことであった。そこで入所者の方々からおうかがいした数々の人権侵害に凄まじいショックを受けた。少年法の研究を続けながらも,「らい予防法」が引き起こした差別問題に取り組まなければという思いがずっとあった。
そのような中,2019年3月に内田先生が,患者の権利保障を定めた医療基本法が議員立法で制定される状況であるのに,この動きを踏まえた医事法の教科書がないので,そうした教科書を執筆するための研究会を立ち上げられたのを機に,内田先生からご指導を受けてきた有志の刑事法研究者が集まり,論点の検討を重ねてきた。
しかし,本書の執筆者には,精神医療の問題に取り組んできた者もいるが,医事法の生粋の研究者がいるわけではない。そうしたメンバーによっていきなり書かれた教科書は受け入れられないのではないか?ある出版社の編集の方からの率直な感想であった。折しもコロナ禍が日本を覆っていた。そこで,教科書執筆の前に,コロナ禍において医事法がいかにあるべきかを市民に問い,患者の人権保障を基軸に据えた医事法によってCOVID-19対策がなされるべきことを内容とする読み物を書いてはどうかというご提案をいただいたのが,本書が成ったきっかけである。この編集の方のご助言がなければ本書はなかった。まず,心からの感謝を捧げたい。
もちろん,本書の内容については,毎回の研究会で貴重なご指導やご助言を賜った内田先生に多くを負っている。私たちが内田先生からいただいたご指導やご助言にどれほどお応えできているかは甚だ心もとないが,謹んで内田先生に本書を捧げたい。
本書の各章の内容を要約すると,以下のようになる。
序章は,日本を襲っているコロナ禍で患者や家族のみならず医療従事者やその家族までも差別被害に苦しまされている現状から,そもそもその人権が保障されてきたのかを問う。
第1章は,コロナ禍で露呈した感染症対策の問題にメスを入れる。日本における感染症対策の歴史を踏まえ,社会防衛目的から,良質かつ適切な医療の提供と患者の人権の尊重をうたうものへと転換した感染症法の精神に基づき,あるべき感染症対策を提示する。
第2章は,医療をめぐる法のあり方にメスを入れる。「濃厚接触者」概念を手掛かりに日本の医事法を成り立たせているハードローとソフトローとの関係を検討し,それらの制定のあり方,医療従事者が規範にいかに向き合うべきかなどを提示する。
第3章は,医事法全体のあり方にメスを入れる。医事法が,①国・自治体と医療従事者等の関係、②医療従事者と患者等の関係、③国・自治体と患者等、という3面関係を規律する法であることを前提に,コロナ禍から見えた日本の医療のいびつさの問題を提起し,患者の医療を受ける権利が脅かされている現状改革の方向性を提示する。
第4章は,コロナ禍における精神医療のあり方にメスを入れる。民間の精神科病院への入院に依存してきた日本の精神医療の歴史を踏まえて,そこで生じてきた様々な問題の上に,コロナ禍で生じている問題があることを示し,一般医療から隔絶された精神医療を,障害者の権利条約に基づき一般医療に組み入れる方向での改革の必要性を提示する。
第5章は,コロナ禍で顕在化した日本の医療費抑制政策と医療従事者を取り巻く労働環境の問題点にメスを入れる。医療保険制度をも視野に入れつつ,経済効率性のみが重視される傾向と医師の労働者としての権利を軽視してきたことが,コロナ禍における医療従事者の過重負担を招いていることを指摘し,その改革の必要性を提示する。
第6章は,コロナ禍における専門性と国家との関係にメスを入れる。COVID-19対策における「日本モデル」が,差別や排除を加速させたのではないかとの問題を提起し,国から独立した専門性を確保し,政策決定過程の透明化と検証の必要性を提示する。
第7章は,医師を中心とした医療従事者の養成過程にメスを入れる。日本における医師の養成の歴史をたどりつつ,歴史的に抱えこまされた問題を内包したまま,コロナ禍においても従前と同じ養成過程を取る限り,問題は拡大するとして,その再構築の必要性を提示する。
第8章は,コロナ禍で露呈した地方に端を発した医療崩壊問題にメスを入れる。自由開業制がもたらした地域医療の構造を概観した上で,地方における具体的な医療崩壊ケースと,地方公立病院をめぐる裁判を通して,現状では医療崩壊を止める法的な手段がなく,それを止めるためにも患者の人権を保障する医療基本法の制定の必要性を提示する。
終章は,コロナ禍において医療従事者等にまで及ぶ差別の構造にメスを入れる。このコロナ禍の克服に向けて,「らい予防法」の教訓に学び,差別禁止に実効性をもたせる取組みと患者の人権保障に基づくCOVID-19対策が取られるべきであり,それを通して,医療従事者の人権も保障されるべきことを提示する。
また,本書には,コロナ禍で露呈した様々な問題の他,日本の医療が抱えている問題をよりクリアカットにし,読者の理解を助けるためのコラムも6つ収められている。
本書が,COVID-19の患者やそのご家族のみならず,コロナ禍に苦しむ様々な方々,わけても医療従事者やそのご家族に希望の光をもたらすものとなれば,編者として,これに勝る喜びはない。
もちろん,コロナ禍の制約があり,また,必ずしも医事法の専門家とは言えない執筆者によって書かれたという制約もあるため,本書には様々な不十分な点があるのではないかとも危惧している。本書の至らぬ点については,読者諸賢のご批判やご意見を頂戴できれば幸いである。
執筆者を代表して
岡田行雄
(2021年03月16日公開)