発生から26年が経過したとはいえ「和歌山毒物カレー事件」を記憶している方は多いだろう。1998年7月、和歌山市園部地区の夏祭りで提供されたカレーを食べた住民ら67人が急性ヒ素中毒になり、うち4人が死亡した事件だ。カレーを調理していた鍋にヒ素を入れたとして殺人罪などに問われた林眞須美氏の死刑判決が2009年に最高裁で確定したが、林氏は無実を主張し再審(裁判のやり直し)を求めている。
推定無罪を無視したマスコミ報道によって、逮捕の前から「林氏が犯人」との先入観が世間に植えつけられ、悪人イメージが増幅された。起訴後には林氏の自宅が放火されている。当時の印象は、今も根強く残っているのではないだろうか。
映画『マミー』で監督の二村(にむら)真弘さんは「白紙」の立場から事件と向き合った。真相をあぶり出すべく独力で一から取材を重ね、死刑判決を支えた証拠はもろく疑義があることを浮き彫りにしている。
民事訴訟に提出された証拠を糸口に
二村さんがこの事件の取材をしようと思ったのは、ドキュメンタリー番組の制作ディレクターをしていた2019年のこと。林氏の長男のトークイベントに参加したのがきっかけだった。野次馬的な動機だったが、「冤罪の可能性」を初めて聞かされ興味を持った。そのイベントを取材していたテレビ番組が「判決が確定している事件について冤罪に言及するなら放送できない」とボツにされたと知り、「冤罪の可能性があるなら検証するのはメディアの役割として必要。自分ができることから取り組みたい」と考えた。
ただし、取材にあたって「冤罪と決めつけない」とのスタンスを堅持することにした。冤罪を前提にすると、林氏を犯人視した事件当時の報道と同じことになりかねないからだ。心情面を含めて偏った視点から捉えたくなかったので、林氏の弁護団にも協力を呼びかけることはしなかった。
判決文でさえ判例雑誌で関係者の名前を消したものしか見ることができず、訴訟記録を保管している検察には供述調書などの証拠を閲覧させてもらえない。そこで、林氏がマスコミなどを相手に起こしてきた40件近い民事訴訟に着目。そこには証拠として刑事裁判に使われた供述調書や鑑定書が提出されており、取材の糸口になった。
「事件を再検証してもらおうと、林さんは民事訴訟を通じて意図的に資料を見られるようにしたのだと感じました」
死刑判決の認定は正しいのか——。林氏の長男と夫に密着しながら、事件の関係者に取材の意図を説明する手紙を書いては面談し、判断の材料を蓄積していった。捜査にあたった警察官、公判を担当した検察官や裁判官、犯人視のきっかけとなる記事を書いた新聞記者にもアプローチしている。プロセスを含めてYouTubeで配信し、視聴者の反応も見ながら地道に取材を続けた。
死刑判決を支える目撃証言やヒ素鑑定に疑義
検証した証拠の1つが目撃証言だ。
ガレージで調理中のカレー鍋をそばで見守っていたのは林氏と次女だが、裁判では次女はその場にいないこととされ、さらに林氏がヒ素を入れる瞬間を見た人はいない。「カレー鍋の蓋を林氏が開けるのを見た」という向かいの家の住人の証言はあるが、実際にヒ素が検出されたのとは別の鍋。当初の「1階の部屋から見た」は公判の途中で「2階から見た」に変わっている。林氏や次女の証言も踏まえて、一緒にいた次女が味見をするために蓋を開けたのを見たのではないか、と疑問を投げかける。
カレーに混入したヒ素の鑑定をめぐっては、世界有数の大型放射光施設「スプリング8」を利用した解析がマスコミにもてはやされた。林氏の周囲で見つかったヒ素と夏祭り会場で回収されたコップに付いたヒ素がともに中国産、とする鑑定結果が有罪の大きな根拠になった。映画には、鑑定を実施した学者と、その結果に異議を唱える学者が登場し、それぞれ見解を示す。
「警察は林家に関連するヒ素しか鑑定の対象にしていません。ヒ素は希少という理由でしたが、事件の10年ほど前までシロアリ駆除などのために和歌山市内に月に何トンも持ち込まれていました。同じ中国産でも原料によってばらつきが出るので、もっと詳細に調べるべきでした。犯人は林さんという見込み捜査だったのではないでしょうか」(二村さん)
映画は、林氏の夫や自宅に居候していた男性がヒ素中毒になっていたという事件の背景にも切り込む。林氏にヒ素を飲まされた被害者とされた夫は「自らヒ素をなめて中毒になり、高度障害で多額の保険金をもらった」と告白する。居候の男性も林氏による被害者とされたが、夫は「自分が教えて同様の保険金詐欺をしていた」と明かす。林氏がカレー事件の前から周囲の人間にヒ素を飲ませていたとする、犯行の動機につながる状況証拠の危うさが浮かび上がる。
「『毒婦』とは違うイメージを伝えたい」
映画のタイトルに採った「マミー」は、長男や夫が林氏を呼ぶ時の愛称だ。「『毒婦』などと揶揄されてきた林さんの違うイメージを伝えたい」と選んだ。こうしたテーマの作品は日本では受け入れられにくいと感じていたので「逆輸入」を意識し、海外で通用するよう映像の質にもこだわったという。
取材に4年をかけて完成した映画の公開が決まると、林氏の長男はひどい誹謗中傷や嫌がらせを受け、協議の結果、映像の一部に加工を施すことになった。林氏の無実主張を頭から拒む、社会の固定観念の強さがうかがわれる。
二村さんはこう呼びかける。
「この事件や林さんに対して抱いているイメージを出発点に、映画を見た後に印象がどう変わるか、ぜひ体験してほしい」
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8月3日から[東京]シアター・イメージフォーラム、[大阪]第七藝術劇場ほか全国順次公開。
公式WEBサイト:http://mommy-movie.jp
◎著者プロフィール
小石勝朗(こいし・かつろう)
朝日新聞などの記者として24年間、各地で勤務した後、2011年からフリーライター。冤罪、憲法、原発、地域発電、子育て支援、地方自治などの社会問題を中心に幅広く取材し、雑誌やウェブに執筆している 。主な著作に『袴田事件 これでも死刑なのか』(現代人文社、2018年)、『地域エネルギー発電所──事業化の最前線』(共著、現代人文社、2013年)などがある。
(2024年08月02日公開)