免田事件/再審で無罪になって40周年、高峰さんらが語る免田事件の教訓


1983年7月15日午後3時25分、無罪判決後、熊本地裁八代支部の玄関前に姿を表した免田栄さん。第一声は、「みなさんのおかげで、自由社会に帰ってきました」であった。

 1980年代前半に無罪になった死刑四再審の一つである免田事件。7月15日に、その再審請求人であった元死刑囚・免田栄さんが再審で無罪になって40周年を迎える。

 その当時、再審での無罪が相次いだが、日本の司法界では誤判原因の徹底的な究明がなされなかった。また、冤罪救済の手段である再審法の欠陥も露呈されたが、その改正も実現しなかった。現在もなお袴田事件(再審確定)、日野町事件大崎事件飯塚事件など再審事件が続いている。

 無罪の現場に立ち会って、その後、免田栄さんと交流を続けていた高峰武・熊本日日新聞元記者は、同僚の甲斐壮一・熊本日日新聞社記者、牧口敏孝・RKK熊本放送元記者とともに免田事件資料保存委員会を立ち上げ、免田栄さんの獄中書簡、訴訟資料などを収集し、免田事件とは何であったかを追い続けてきた。それは、昨年、『検証・免田事件[資料集]』(現代人文社)として結実している。

右が『検証・免田事件[資料集]』、左が2018年刊行の『完全版 検証・免田事件』。

 2023年6月30日夕、免田事件資料保存委員会のメンバー、甲斐壮一さん、牧口敏孝さん、そして高峰武さんの3人は、東京・内幸町の日本記者クラブの記者会見場にいた。2023年の日本記者クラブ賞特別賞受賞の記念講演のためだ。甲斐さんが獄中の免田さんから肉親に宛てて出された400通の手紙、牧口さんは免田さんが獄中で読んだ本について、高峰さんがこの40年の免田さん夫妻との交流やその中から見えてきたものについて話したのだが、高峰さんの話は視点を変えれば、それまで3人が見えていなかったことの多さをさらすことでもあった。

 3人の報告の骨子を当日の順番で紹介したい。

【高峰武さん】

 私は2023年6月6日、熊本地検の一室にいました。免田事件の原資料にあたるためです。最初の再審請求書は1952年6月7日の日付。この閲覧申請はちょうど1年前。ここまでに何度か、閲覧の目的や私の身分などが質されました。その過程で思ったのは、こうした資料は本来だれのものなのか、本来、国民のものではないか、という思いでした。

 保存委員会の3人の共通項は、1983年7月15日の、日本で初めての死刑囚が再審無罪になった免田事件の判決前後から取材していたことです。以後40年、ご夫婦と交流を続けてきましたが、2018年、奥さんの玉枝さんから自宅にある資料を預かってくれないか、と相談があり、整理・保存の作業を始めることになりました。そこでは、驚きの連続でした。

 例えばNo3とだけ書かれた綴りがありました。これは、第1回公判から死刑判決までの公判調書と証人調書で891頁。すべて手書きで写しています。凄まじい執念です。書き写すことで漢字の勉強もしていました。34年に及ぶ死刑囚としての実相。一部を除いて正直、知りませんでした。これは逃れられないと、免田事件資料保存委員会をつくって資料集作りを始めたのです。友人、知己に寄金設立を呼びかけ。100人を超える人たちから支援の申し出がありました。会報を「『地の塩』の記録」(「検証・免田事件[資料集]フォローアップ」に全号収録・閲覧無料)としてこれまで8回発行しています。

 免田事件とは何か。その答えは免田さんの言葉の中にあったのですが、それに気付くのには、お恥ずかしいことに長い時間がかかりました。

 最初の問題意識は、司法上の免田事件と言っていいのかもしれません。

① なぜ、捜査が誤ったのか。それは①見込み捜査、②自白の強要、③物証の軽視です。
 免田さんが終生、格闘したものに「なぜやってもいないのに自白したのか」という問いかけでした。自白調書に署名した、自白ではない、と言うのですが、分かってもらえません。一人の警察官の仕事は最高裁判決に類する、という言葉も免田さんが言った言葉です。獄中で語り継がれていた言葉でした。

② なぜ34年間も間違いが正されなかったか。しかし、一度、間違いに気付いた裁判官はいたのです。昭和31年の西辻決定です。しかしこれは福岡高裁が「法の安定」を理由に取り消します。再審の壁の高さです。結局、昭和50年の白鳥決定まで待たねばなりませんでした。

③ 三つ目は社会の側はどうだったのか、ということです。免田さんは再審無罪判決後、二つの動きをします。一つは自分の再審無罪判決に再審を申し立てることです。異例のことで棄却されましたが、中味は再審法の不備を指摘しています。2005年のことです。二つ目は年金問題です。日弁連などが動いてようやく2013年に死刑囚で再審無罪になった者に年金が払われる特例法ができました。これも免田さんが言わなければ社会の側は気付きもしなかった問題なのです。

 免田事件のキーワードは、「再審は人間の復活です」という免田さん自身の言葉が示しています。私は記者として、免田事件や水俣病、ハンセン病の問題にかかわってきましたが、共通するのは「人として扱われなかった」ことではないか、言葉を変えれば「戦後憲法の傘の中になかった」ということではないか、と思うようになりました。しかも国民の大多数は無関心、あるいは少数の犠牲の上に自分たちの生活がある、という構造に気付いていないように思います。

 水俣出身の民俗学者・谷川健一さんが「水俣病より水俣が大きい」と言いました。水俣には、水俣病が起きる以前の水俣があったということですが、刑事事件としての免田事件ともう一つ、社会的事件としての免田事件があった。それには時代という問題と国民の意識という問題が関係しています。

 「水俣病が起きて差別が起きたのではなく、差別のあるところに水俣病が起きた」という言葉は、長年、水俣病事件と向き合ってきた医師・原田正純氏の言葉です。冤罪事件も同じ構造ではないか、「再審は人間の復活です」に込められた意味はそういう意味ではないか、と思います。どうしたら誤りのない司法を実現するか。これからも等身大の免田栄という人物を真ん中に置き作業を続けていくつもりです。免田さんと最後に会ったのは2020年11月17日。晩年の口癖は「よう生きてきたなあ」でした。万感の思いのこもった言葉でした。

【甲斐壮一さん】

 実家に残っていた約400通の手紙、大半が父親に宛てたもの。家族が免田栄さんに宛てた手紙が約250通。この中から3通を紹介します。

① 免田さんが父・栄策さんに宛てた1950(昭和25)年1月14日消印のはがき
 →一審死刑判決(同年3月23日)より前、求刑直前の時期
 平仮名、片仮名が多く、たどたどしい文章。差し入れを頼む内容。食べるものは「豆三升 ニギリメシ二〇個 タマゴ十個 甘藷二〇個 モチ二〇個」
 食べ物の多さが際立っていて、食糧難がうかがえます。
 ※この手紙では分からないが、誤字、当て字もたくさんあって読みにくい。しかし、書き癖が分かると、行間から息遣いが聞こえてくるようでした。

② 免田さんが弟・光則さんに宛てた1980(昭和55)年12月19日消印の手紙。
 →第6次再審請求に対し、最高裁が12月11日に再審開始を支持する決定を出した直後。父・栄策さんは吉報を聞くことなく、1971(昭和46)年4月、74歳で亡くなっています。
 「(抜粋)大麦を現在、作ってなければめんどうだろうが一俵分程作り、私が裁判の終り帰郷したその日の食事から麦飯を食べれるよう準備しておいて下さい」
 待ち焦がれた再審が確定的になり、再審公判の日程も決まっていない中、早くも晴れて社会復帰した後に思いを馳せています。獄中と同じ食事に気を配ることに、生き抜いてきた意志の強さ、生への執念がうかがえます。

③ 父・栄策さんが免田さんに宛てた1951(昭和26)年3月3日にしたためたとみられる手紙
 →福岡に移監後、福岡高裁の控訴棄却判決(3月19日)直前
 「(抜粋)やはり父あって子、子生きて父あり 御前の事を一日として忘れる事は出来ない」
 父親の息子を思う心情がにじみ出ています。父親の願いも空しく、判決は控訴棄却(死刑判決を支持)でした。

 資料整理を通して、事件や免田さんに対する理解が一面的だったと痛感しています。人間・免田栄に出会ったという思い。存命中に手紙を書いたその時々の胸中を聞いておけば良かったという悔いが残っています。ですから、この場にいることに胸を張れないのです。

【牧口敏孝さん】

 免田さんは34年間の獄中で実にいろいろな本を読んでいました。免田栄文庫に現在残されている本の数はおよそ1,000冊です。免田栄文庫は、当初、支援者で、キリスト教教誨師の潮谷総一郎氏の福祉施設にありました。潮谷氏によりますと、免田さんが獄中で読破した本の数は、およそ2,000冊ということです。

 現在残っている1,000冊の他に当初は、視覚や聴覚に障害がある子どもたちのために免田さんが獄中で点訳した本が数百冊ありました。残念ながら2016年の熊本地震やその後の大雨などで、点訳本も大きな被害を受けたことからほとんど廃棄されました。

 潮谷氏の福祉施設にあった免田栄文庫は、再審無罪判決から18年後に、免田さんが結婚して住んでいた福岡県大牟田市の集会所に移されており、これまでにおよそ300冊について調査をしました。

 免田さんが何を考えていたのかなど、免田さんの頭の中が少しずつ見えてきました。

 免田栄文庫の特徴は、読んだ本の種類が、多岐にわたっていることです。免田さんは獄中でキリスト教の洗礼を受けています。新約聖書、旧約聖書などがあります。宗教関係の本は、キリスト教関係だけを読んでいたのではありません。

 さらに、歴史についても、日本の歴史だけではなく、世界の歴史の本も読んでいます。そして地球を含む宇宙の歴史に関する本も読んでいます。

 私が注目しましたのは、本人が起源シリーズと言っているものがあります。「国家の起源」などです。『検証・免田事件[資料集]』の219頁から221頁に掲載されていますが、生涯の支援者であった潮谷総一郎氏へ送った手紙の中で、免田さんは次のように述べています。

 「……獄中生活二十四年もやがて過ぎます。でも元気です。毎日日曜日以外は朝六時半に起き奌訳、十一時まで続け、その間九時より十時まで運動が行われます。十一時以後は書物や本を読みます。日本人の起源、生命の起源、日本記の起源、キリスト教の起源、此の頃は、私の部屋は起源ブームです。本を讀むことで色々なことが教えられ、この奌この生活では恵まれて居ると云ってよいでしょう。……」

 その他に次のようなものがあります。医学関係者が読むフロイトの著書『改訳 精神分析入門』。私は正直にいいますと、免田さんには失礼ですけれど、本当にこの本を読んだのだろうかと思って、ページをめくっていきました。18カ所に赤鉛筆で印がつけられていました。

 皆さんも読まれたことがあると思いますが、『日本人とユダヤ人』など山本七平氏の著書が10冊、『氷点』など三浦綾子氏の著書が8冊。三浦氏の著書は、拘置所内でブームになり、回し読みをしていたということです。

 『日本の伝説』など民族学者である柳田國男氏の著書が5冊、『ドキュメント 太平洋戦争』1巻から6巻、大森実氏の著書『戦後秘史』の1巻から10巻。このような多くの本の中で、日本の歴史の本は、天皇制の歴史を知るためであったと推測しています。

 免田さんは、自分が冤罪に陥れられた原因は、天皇制にあると言っていました。その理由は、天皇制にもとづく拝命思想が、一般庶民を見下すからだということです。免田さんの獄中記によりますと、その際、取り調べ刑事から言われた言葉が次のような内容でした。「戦争には負けても、天皇陛下から拝命した警察官だぞ。きさまらのようなその日暮らしの百姓とは違うんだ。俺たちをなめるな」。このように言われています。

 免田さんにとっては、冤罪の原因が、天皇制、拝命思想にあると主張するのはこの体験からきています。この拝命という言葉は、免田事件が発生した終戦直後だけでなく、今でも、公務員、民間を問わず、日常的に広く使われています。このことは、免田さんにとって、天皇制、拝命思想は続いていると考える根拠になっていました。

 その天皇制に関する本を、免田さんは多く読んでいます。天皇制反対の本が多いのですが、その逆の天皇制を擁護する本も読んでいました。その一つが、細川隆元氏の『天皇陛下と語る』です。この本には、私本閲読許可証が残っていました。許可された期間は、1982(昭和57)年12月17日から1983(昭和58)年1月16日となっています。これは再審裁判で、検察側が再び死刑の求刑をした後の時期になります。普通ならば、検察側に対して憎しみがさらに募ってくるのではないかと思われます。何故、この時期に天皇制擁護の本を読んだのか、しばらく考えさせられました。私なりに考えたのは、敵の検察側のトップである天皇とはどんな人間なのかを知ろうとしたのではないでしょうか。

 さて、免田さんは読書によって、最終的に何を知ろうとしたのでしょうか。未収録の資料を掲載しているウェブサイト「検証・免田事件[資料集]フォローアップ」の中に、映画『獄中の生』の小池征人監督が整理した手紙のメモ(2‒94‒3【映画『免田栄 獄中の生』の小池監督の整理メモ】1974〔昭和49〕年9月18日)があります。潮谷総一郎氏に宛てた手紙です。「眞実を通さねば真の人権と民主主義は守られません。私は自分の一生をあれはかたよった人間だとは言われたくありません。人間とはなにか、それが知りたいのです。」

 「人間とはなにか」について、免田さんが答えを見つけ出したのかどうかは、まだ、今までの調査の中では分かりません。免田文庫の中に『岩波小辞典 哲学』など哲学関係の本もあります。最後に、免田さんが赤線を引いた言葉の中で、私が最も印象に残っている言葉をご紹介します。「無知は恐怖を生み、知識は確信を与える」です。

(2023年07月13日公開)


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