免田事件の資料整理進む


市民研究員の高峰武(左)さんと甲斐壮一さん(免田事件関係資料が保管されている熊本大学文書館で。2020年9月17日)。

11月いっぱいで一次的な整理を終了し、目録公開に向けての作業へ

 免田事件で再審無罪になった免田栄さん、玉枝さんご夫妻から熊本大学に寄贈された資料は、熊本大学文書館の市民研究員である高峰武と甲斐壮一が整理を進めている。中心をなすのが、免田さんが父栄策さんら家族に宛てた400通余りの手紙類と免田さんが手書きした裁判資料。作業の進捗も登山に例えれば八合目を越えたあたりというところだろうか。11月いっぱいで一次的な整理が終了し、目録公開に向けた二次的な作業に移行する見通しだ。

 それとは別に免田さんが獄中から、支援を続けた潮谷総一郎さん(1913~2001年、熊本市)へ書き送った1000通を超える手紙類のコピーがある。潮谷さんは熊本市の社会福祉法人「慈愛園」の園長を長く務めるなど福祉畑を歩いた人。教誨(きょうかい)師として福岡の拘置所に足を運び、ある死刑囚を通して免田さんと知り合う。

 交流を続けるうちに免田さんの事件への関与に疑いを抱くようになり、免田さんのアリバイを証言するキーパーソンを捜し出して、第三次再審請求審での再審開始決定(1956年、西辻決定)に大きな役割を果たすことになる。この手紙だけでドキュメンタリー映画『免田栄 獄中の生』(1993年、小池征人監督、シグロ)が製作されている。

西辻決定直後の免田さんの手紙

 今回は、西辻決定後に免田さんが家族と潮谷さんに宛てた手紙を抜き出し、当時の心の動きを追ってみる(引用は原文のまま。カッコ内は分かりやすいように補った)。

 1952年1月に死刑が確定した後、第一次、第二次の再審請求を退けられた免田さんは潮谷さんの協力と新たな弁護士を得て1954年5月、熊本地裁八代支部に三度目の再審を請求。西辻孝吉裁判長は2年後の1956年8月10日、免田さんのアリバイを認め再審開始を決定する。

 「今、喜びの知らせを受けました。再審が開始されました。過去8年、多くの苦しみを受けつつ切り抜けた結果が現在実を結んだ事と思います」。潮谷さんへの8月17日の手紙である。

 父栄策さんには少し遅れて9月4日消印の手紙が残っている。

 「お多忙にもかかわらず一昨日は遠い処まで参上下され、時間の都合で一夜駅に明された様子、不肖私の為本当にご迷惑をかけます。しかし元気な父上及び光則の顔を見て安心致しました。お話したいことはありましたが、思っている事がのどに留り戸惑うばかりです。しかし正しい事を八年間戦ってきてようやく認めて下さった事を思う時、過去の苦労をつくづく反省致します。本当に良く今日まで生抜いて来たものと思い涙が出ます。ひとえに父上始め家族様の協力のたまものと深く感謝致します」

 光則さんは、免田さんに代わって父を支え実家を守る弟である。免田さんの喜びもひとしおだったが、文面の終わりを次のように締めくくっている。

 「何時に何と通知が来るか分かりません。又いかなる事がありましても正しい事は最後まで通して行きます。無罪の一日も早く来る事を祈りつつ。お体を大切に」

保管されている手紙の一部

同級生たちが無実信じて署名活動

 果たして、検察側は再審開始決定を不服として福岡高裁に即時抗告する。そして2年8カ月後、再審開始は「法の安定」を理由に取り消され「幻の決定」となるが、待たされる歳月はそれ以上に長く感じたことだろう。

 父栄策さんにたびたび心情を伝えている。

 「再審が決定した時、父上が持参して頂いた服は丁度冬の季節に入る前で、冬の服を差し入れて頂きました。しかし今となっては夏の服も準備しておかねばと思います。ぜいたくな事のようですが、公判が始められると人前に冬服を着て出る事も恥を感じられること故、近々あい服(合服)を上下都合してお送り下さるようにお願い申し上げます。予感がするのですが、八月中旬で(再審開始決定から)二年になりますので、近いうちに裁判が始まるのではないかと思います」(1958年4月11日消印)

 「毎年、夏の暑さに苦しむ私ですが、今年は例年以上に体にこたえます。暑さに負けるようでは(罪が)晴れる日を迎えることができませんし、懸命になって築いた今までの苦労が水の泡となります。必ず正しい裁きがあり、晴れて父上のところに帰って来る時も長くはないと思い、強い信念を持っています」(同年7月10日消印)

 一度出た再審開始という決定は多くの反響を呼び、故郷の同級生たちが無実を晴らすために動き出した。1958年12月14日付の『熊本日日新聞』社会面のトップ記事は「死刑囚の友を救え」という主見出し、「反証あり、彼は無実 同級生 こぞって署名達成」と脇見出しを付けて報道している。

 免田さんは潮谷さんに宛てた12月25日付の手紙にこう綴っている。

 「今月二十三日は家から便りが来ました。十二月十四日熊日新聞に私の事が書いてありました。その記事を送り下さいました。私の現在の身を救ってやると同級生が運動を始めて、町内の方に署名を頂きました。八代及び福岡の裁判所にお送り下さる様です。本当に有難い事でございます。私の様な者まで此の様な温かい助けの手を述べて下さるかと思えば何と申してよいやら分からぬ状態です。唯々私が云いたい事は過去十年正しい事を通して来て、自分の心に何か暗いものがなかった事です。この正しい私の心情を神は見抜かれて助けの手を与えて下さった事と信じて感謝して居ります」

 この新聞記事は免田さんの心の深くに届いたようだ。父栄策さんもうれしかったのだろう。獄中の免田さんに早速、記事を送ったことに喜びの大きさがうかがえる。

 なお、免田事件の資料が熊本大学に保管されることになった経緯については、「免田事件資料、熊本大学が保管」(2019年5月10日公開)を参照してください。

(熊本大学文書館市民研究員/甲斐壮一)

(2020年10月16日公開)


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