
袴田事件(1966年)でいったん死刑が確定した元プロボクサー袴田巖さん(88歳)が、静岡地裁の再審(やり直し裁判)で無罪判決を言い渡され確定したことを受け、検察と警察は昨年暮れ、捜査や公判手続の検証報告書をそれぞれ公表した。
袴田さんの犯行着衣とされていた「5点の衣類」が捏造証拠だと判決が明言したことに対し、検察は「合理的な根拠を欠いている」と批判。警察も「具体的な事実や証言を得ることはできなかった」と受け入れなかった。一方で、判決が「非人道的」と非難した捜査段階の取調べについては「不適正だった」(警察)、「自白は任意性を欠くものだった」(検察)と違法性を認めた。
再審無罪判決は「3つの捏造」を認定
昨年9月の再審無罪判決は、5点の衣類をはじめ、その1つであるズボンの端切れ(共布)、検事による供述調書に「3つの捏造」を認定し、袴田さんの犯人性を明確に否定している。
判決は、確定審で最重要証拠とされた5点の衣類について、付着した血痕に赤みが残っていたことを根拠に、事件直後に袴田さんが味噌タンクに投入したのではなく「捜査機関によって血痕を付けるなどの加工がされ、(事件の1年2カ月後の)発見から近い時期にタンクに隠匿された捏造証拠」と断じた。
ズボンが袴田さんのものと判断される裏づけになった共布は、袴田さんの実家からの押収の経緯や検察の立証活動の不自然さを理由に挙げて「捜査機関の者によって捜索以前に持ち込まれた後で押収されたという事実を推認させる」と踏み込んだ。検事の供述調書では、担当検事が「袴田さんを犯人と決めつける追及的な取調べを繰り返し行っていた」などと指摘し、証拠から排除していた。
5点の衣類の捏造認定は「客観的事実関係と矛盾」
最高検察庁が昨年12月26日に公表した「検証結果報告書」は、本文がA4判87ページ。逮捕から再審無罪判決まで58年以上かかったため、袴田さんの法的地位が長期間にわたり不安定な状況になったことを「刑事司法の一翼を担う検察として真摯に受けとめる」としたうえで、「再審請求手続きが長期間に及んだことや捜査公判上の問題点を検証し、今後、再審事件に検察が対応するに当たって講ずべき方策について検討した」と目的を説明した。
最大の注目点は、検察が報告書で5点の衣類の捏造を認めるかどうかだった。検察は再審公判で、①袴田さんが事件前に着用していた衣類に酷似する5点の衣類を用意することは著しく困難、②捜査機関が5点の衣類を捏造しようとした場合、作業は大規模になり発覚するリスクが高い——などと全面的に否定していた。
報告書はまず、再審無罪判決は「事件の約3カ月後に袴田さんの衣類が寮から実家に送られる前に、捜査機関が5点の衣類を盗み出して捏造したと認定している」と見立てた。
そのうえで、①捜査機関はその当時、犯行着衣をパジャマとしており、捜査・立証の方針と齟齬する5点の衣類をわざわざ入手しておき、のちに犯行着衣として捏造することは現実的にあり得ない、②確定審の初公判で袴田さんが否認に転じる前から捜査機関が犯行着衣の捏造を企図していたとするのは、客観的な時系列と明らかに矛盾している——との見解を提示。判決の認定は「合理的な根拠を欠いている」「客観的事実関係と矛盾する」と反論し、あくまで捏造を認めなかった。
捏造を認定する前提になった5点の衣類の血痕の色合いをめぐり、判決が「1年以上味噌に漬かれば赤みは残らない」と判断したことに対しても、報告書は「醸造の専門家らの見解を踏まえているとは認め難く、科学的な根拠を伴っているとは評価し難い」と受け入れなかった。
共布の捏造認定は「明らかな事実誤認が前提」
5点の衣類の発見の12日後に押収されたズボンの共布についても、報告書は捏造の認定に強く反論している。
判決は、検察が共布押収の前日に5点の衣類を袴田さんの犯行着衣だとして裁判所に証拠請求したのは不自然だと判定した。これに対し報告書は、衣類の発見後に捜査機関が関係者の事情聴取などをしていたことを挙げて「共布以外の裏づけ捜査結果を踏まえて5点の衣類が袴田氏のものだとの心証を得て証拠請求した」と主張。「検察官の対応に不自然・不合理な点は認められない」と強調し、「明らかな事実誤認を前提とした認定がなされている」と、ここでも判決を非難した。
報告書はこれらの争点について、再審請求審や再審公判で「検察の訴訟活動に問題はなかった」と結論づけている。
報告書は冒頭で、判決の認定を批判したのは「あくまでも検察官の捜査公判上の問題点を検討するための前提」と釈明し、「無罪の結論を否定するものではなく、検察は袴田氏を犯人視していないことを改めて付言しておく」と断ってはいるが、これまでの検察の主張を正当化している印象を強く受ける。
「検事は犯人と決めつけたかのような発言をしていた」
一方、報告書は捜査段階での警察の取調べに「多岐にわたる問題点が存在した」と咎めたうえで、検察は「警察官による取調べの影響を明確に遮断して供述の任意性の確保に努める必要があったが、検察官が袴田氏に警察の取調べ状況を尋ねるなどその実態把握に努めたことはうかがわれない」と分析した。
さらに、担当検事は「警察と同じ心証を抱いて、袴田氏が犯人であると決めつけたかのような発言をしながら自白を求めていた」と判決に同調し、検事が「検察と警察は違う」と告げていたとしても「供述の任意性が担保されたとは言い難い」との評価を示した。
5点の衣類のズボンのタグに記された「B」をめぐっても、報告書は「確定審での検察の立証には不十分な面があった」と自省した。「B」は確定審の高裁判決で「サイズ」を表すと認定され、装着実験でこのズボンをはけなかった袴田さんが事件当時は着用できたとする理由づけに使われたが、その段階で「色」を示す記号だとする製造業者の供述調書が存在していた。
第2次再審請求審まで検察がこの事実誤認を見逃していたことにも「審理に混乱を招いたことは否定できず」「訴訟活動として反省が求められる」と戒めた。
証拠開示の対応は問題視せず
袴田さんが1981年に再審を請求してから昨年の無罪判決までに43年以上を要したのは、検察の証拠開示が不十分だったためとの指摘がある。特に、袴田さんの弁護団に5点の衣類の血痕の色合いへの疑念を決定づけさせたカラー写真やネガについては、30枚の鮮明な写真が開示されたのが2010年。さらに「ほかにはない」と説明されていたにもかかわらず2014年になって「新たに見つかった」として93枚のネガが追加で開示されるなど、検察の対応への批判は根強い。
報告書は、第2次再審請求審の初期段階(2010年5月)に検察は「開示できる証拠は任意に開示する」との方針を明示したと強調し、それ以降は「比較的柔軟に対応する姿勢をとっており」「対応は概ね問題はなかった」と総括した。第1次再審請求審で証拠開示をしなかったことについては、弁護団の開示請求の理由が抽象的だったことや、裁判所の命令・勧告がなかったこと、当時は通常審での証拠開示制度がなかったことなどを挙げて、問題視しなかった。
ただ、5点の衣類のカラー写真とネガについては、弁護団が必要性や新証拠との関連性を十分に説明していればとの条件付きながら、第1次再審請求審で開示しても「プライバシー侵害などの弊害があったとは言い難い」との見解を示した。そして、その段階で検察と警察が積極的に探していれば「再審請求審の審理がより促進されていた可能性があった」と弁明した。また、「一部の証拠の管理・把握が不十分だったために、結果として提出する証拠に漏れが生じてしまっている」と落ち度を認めた。
審理の長期化では裁判所の責任に言及
審理の長期化については、最高裁の請求棄却決定までに約27年を費やした第1次請求審に問題があったとの見方を示した。袴田さんが申し立ててから裁判所と弁護団、検察による最初の三者協議が開かれるまでに約3年7カ月、そこから3回目の協議までに約4年半かかっていることを挙げ、「積極的に審理を促進する方策が十分でなかったことが、手続きの長期化の要因の1つとなったとみることができる」と裁判所の責任を問うた。
第2次請求審については、5点の衣類の血痕をめぐりDNA型と色合いの鑑定・実験、証人尋問、多くの証拠提出、主張の応酬が行われており、「綿密な準備や調整」「専門的な内容にわたる検討」が必要だったとして「審理期間がある程度長期に及ぶこともやむを得ない面」があったと振り返った。
検察が、2014年に静岡地裁が出した再審開始決定を不服として即時抗告したのは「科学的に誤った判断を是正するために必要かつ相当なもの」、再審公判で有罪立証をしたのは「関係証拠を総合評価すれば袴田氏の有罪を立証することができるとの判断の下」だったとして、いずれも正当化した。
「再審担当サポート室」の体制を強化
報告書は、再審事件に関する検察の体制として、地検の検事が1人で日常業務の捜査や公判と並行して当たるケースが多く、担当検事が再審事件への対応について「十分な知見を有しているとも限らない」と分析した。
そして、審理を無用に長期化させずに充実させるために「すべての再審事件において統一的な方針の下、十分な体制で適切な判断をしていくことが求められる」と提言。対策として、昨年1月に最高検に設けた専門組織「再審担当サポート室」の強化や、高検にも同様の組織を置くことを挙げた。
(「下」では警察の検証報告書の内容と袴田さんの弁護団の反応を取り上げます。)
【袴田事件の再審決定後の動き】は以下を参照(編集部)
・〈袴田事件・再審〉無罪判決をめぐる検事総長談話に袴田巖さんの弁護団が抗議、撤回を要求/袴田さんも参加し「無罪判決報告集会」
・〈袴田事件・再審〉検察が控訴を断念、袴田巖さんの無罪が確定/検事総長談話は判決に「強い不満」
・〈袴田事件・再審〉袴田巖さんの再審で静岡地裁が無罪判決/5点の衣類など「3つの捏造」を認定
◎著者プロフィール
小石勝朗(こいし・かつろう)
朝日新聞などの記者として24年間、各地で勤務した後、2011年からフリーライター。冤罪、憲法、原発、地域発電、子育て支援、地方自治などの社会問題を中心に幅広く取材し、雑誌やウェブに執筆している 。主な著作に『袴田事件 これでも死刑なのか』(現代人文社、2018年)、『地域エネルギー発電所──事業化の最前線』(共著、現代人文社、2013年)などがある。
【編集部からのお知らせ】

本サイトで連載している小石勝朗さんが、2024年10月20日に、『袴田事件 死刑から無罪へ——58年の苦闘に決着をつけた再審』(現代人文社)を出版した。9月26日の再審無罪判決まで審理を丁寧に追って、袴田再審の争点と結論が完全収録されている。
(2025年02月07日公開)