〈袴田事件・再審〉検察が控訴を断念、袴田巖さんの無罪が確定/検事総長談話は判決に「強い不満」

小石勝朗 ライター


検察が「控訴断念」を発表したのを受けて記者会見に臨む袴田巖さんの姉・秀子さん(左)と主任弁護人の小川秀世弁護士(中央)=2024年10月8日、静岡市葵区の静岡県弁護士会館、提供/袴田巖さんを救援する清水・静岡市民の会

 1966年に静岡県清水市(当時)の味噌会社専務一家4人が殺害された「袴田事件」をめぐり、死刑が確定した元プロボクサー袴田巖さん(88歳)に再審(やり直し裁判)で無罪を言い渡した静岡地裁判決に対し、検察は10月8日、控訴しないと発表した。9日に上訴権を放棄し、事件から58年3カ月余を経て袴田さんの無罪が確定した。

「法的地位が不安定な状況の継続は相当ではない」

 検察は8日、畝本(うねもと)直美・検事総長名の談話を出し、「袴田巖さんを被告人とする令和6年9月26日付け静岡地方裁判所の判決に対し、控訴しないこととした」と表明した。談話は「判決は、その理由中に多くの問題を含む到底承服できないもので、控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容である」とする一方で、「袴田さんが、結果として相当な長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれてきたことにも思いを致し、熟慮を重ねた結果」として「検察が控訴し、その状況が継続することは相当ではないとの判断に至った」と説明した。

 談話は、袴田さんの犯行着衣とされてきた「5点の衣類」に付着した血痕の色合いをめぐり、静岡地裁の無罪判決が「1年以上味噌漬けした場合、赤みを失って黒褐色化する」と認定したことについて「大きな疑念を抱かざるを得ない」と反論。さらに、5点の衣類は捜査機関が捏造したと言い切ったことに対し、①具体的な証拠や根拠が示されていない、②客観的に明らかな時系列や証拠関係と明白に矛盾する内容も含まれている、③推論の過程に論理則・経験則に反する部分が多々ある——として「強い不満を抱かざるを得ない」と異を唱えている。

 再審の審理が長期間にわたり袴田さんの法的地位が不安定な状況に置かれたことについてだけ「刑事司法の一翼を担う検察としても申し訳なく思っている」と謝罪の意を表したが、判決が言及した検事による供述調書の捏造などには詫びや反省の言葉はなかった。一方で、末尾に「最高検として本件の再審請求手続が長期間に及んだことなどにつき所要の検証を行いたい」と記している。

「長生きしてほしい」と姉の秀子さん

 検察が控訴断念を発表したことを受けて、袴田さんの姉・秀子さん(91歳)と弁護団は同日夕、静岡市内で記者会見した。

 秀子さんは開口一番「これで一件落着。完全に終わるので、とてもうれしく思っている。58年の苦労が吹き飛び、喜びしかない」と気持ちを吐露。弟に対して「長生きしてほしい。もう10年くらいは生かしていただきたい。ごく平凡に静かに暮らしていければそれで良いが、巖が行くと言えばどこへでも行くつもりです」と今後も寄り添っていく考えを示した。無罪判決については「巖は半信半疑だと思う。これから徐々に『完全に無罪になった』と分からせていきたい」と語った。

 主任弁護人の小川秀世・弁護団事務局長は「喜びを噛みしめている」と話す一方で、検事総長談話に対し「有罪立証ができるかのようなことをまだ言っているし、この裁判や証拠をどう評価しているのか反省がない。判決に『捏造』をなぜ言われたのか、調査の姿勢も示していない」と怒りを露わにし、「けしからん」と繰り返した。間光洋弁護士も「談話は、判決が指摘した非人道的な取調べに全く触れていない。捏造の認定も受け入れていない。控訴すれば無罪が覆せたかのようで、許しがたい」と語気を強めた。

 小川氏は「個人の見解」と断りながら、無罪判決が警察や検察の責任をはっきり認めたことを基に、国家賠償請求訴訟を起こす意向を明かした。

控訴しないよう検察への申入れに向かう袴田巖さんの弁護団=2024年10月7日、東京・霞が関、撮影/小石勝朗

 弁護団は前日の10月7日、最高検と東京高検に対し、速やかに上訴権を放棄するよう申し入れていた。これまでに死刑が確定しながら再審で無罪判決が出た4件で検察が控訴しなかったことに触れ、控訴は憲法39条が禁止する「二重の危険」に当たると立論。さらに、①無罪判決の根拠となった5点の衣類に付着した血痕の色調については、再審公判と再審請求審で検察の主張・立証は尽くされている、②袴田さんの年齢や健康状態も考慮し、人道的な見地から長期間に及んでいる審理を終結させるべきだ——として、検察は「公益の代表者として控訴をしないことが正義にかなう」と主張していた。

「控訴しないで」支援団体がさまざまな取組み

 9月26日に静岡地裁が袴田さんに無罪判決を言い渡してから、袴田さんの弁護団や支援団体などが検察に控訴しないよう求めるさまざまな取組みをしてきた。世論の喚起にもつながり、弁護団が実施したインターネット署名には約5万2000人(10月7日時点)が賛同した。弁護団の記者会見では「市民の厳しい声が検察を控訴断念に追い込んだ」(間弁護士)との発言もあった。

 超党派の国会議員でつくる袴田巖死刑囚救援議員連盟は10月2日、法相に対し、検察が控訴した場合は指揮権を発動して控訴を取り下げさせるよう申し入れた。法務省は当初、審議官が応対したが、参加した5人の国会議員が強く抗議した結果、最終的に事務次官が出てきたという。同行した秀子さんに法務省側からの「言葉のやりとりはなかった」(参加議員)そうで、秀子さんは「やっぱり役人だと思った」とあきれた様子だった。

 議連はそのあと、弁護団や支援団体と共催して「無罪確定を求める緊急集会」を東京・永田町の衆議院第1議員会館で開いた。2014年に再審開始決定を出した静岡地裁元裁判長の村山浩昭弁護士は、袴田さんが再審請求を起こしてから無罪判決までに43年余を要したことを挙げて「制度や法律に欠陥がある」と指摘。「再審法改正に努力し、実効性のある法律をつくりたい」と強調した。

要請行動後に記者会見する日本プロボクシング協会袴田巖支援委員会のメンバー=2024年10月3日、東京・霞が関の司法記者クラブ、撮影/小石勝朗

 日本プロボクシング協会の袴田巖支援委員会は10月3日、控訴しないよう求める要請行動をした。4人の元世界王者ら約40人が参加し、東京・霞が関の検察庁舎周辺で街頭アピールをした後、「一刻も早く試合終了のゴングを」と呼びかける要請書を東京高検へ提出した。新田渉世委員長は、袴田さんが元プロボクサーだったため「ボクサー崩れ」との偏見が冤罪の一因になったとの見方を示し、「ボクサーはルールに基づいて正々堂々と戦っていることを世の中に強く訴えていきたい」と力を込めた。

 法学研究者の有志も10月4日、「再審無罪判決の速やかな確定と、再審法改正の実現を求める」と題した声明を発表した。法学者や弁護士ら約350人が賛同した。

【袴田事件の再審決定後の動き】は以下を参照(編集部)
〈袴田事件・再審〉袴田巖さんの再審で静岡地裁が無罪判決/5点の衣類など「3つの捏造」を認定
〈袴田事件・再審〉検察が死刑を求刑、弁護団は無罪を主張し結審/判決は9月26日(下)
〈袴田事件・再審〉検察が死刑を求刑、弁護団は無罪を主張し結審/判決は9月26日(上)

◎著者プロフィール
小石勝朗(こいし・かつろう) 
 朝日新聞などの記者として24年間、各地で勤務した後、2011年からフリーライター。冤罪、憲法、原発、地域発電、子育て支援、地方自治などの社会問題を中心に幅広く取材し、雑誌やウェブに執筆している 。主な著作に『袴田事件 これでも死刑なのか』(現代人文社、2018年)、『地域エネルギー発電所──事業化の最前線』(共著、現代人文社、2013年)などがある。


【編集部からのお知らせ】

 本サイトで連載している小石勝朗さんが、10月11日に、『袴田事件 死刑から無罪へ——58年の苦闘に決着をつけた再審』(現代人文社)を著す。9月26日の再審無罪判決まで審理を丁寧に追って、袴田再審の争点と結論が完全収録されている。

(2024年10月11日公開)


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