8月10日、免田事件資料保存委員会が『検証・免田事件[資料集]』を刊行


右がこの程刊行された『検証・免田事件[資料集]』、左が2018年刊行の『完全版 検証・免田事件』。

 8月10日、免田事件資料保存委員会編の『検証・免田事件[資料集]——1948年(事件発生)から2020年(免田栄の死)まで』(以下、資料集)が、現代人文社より刊行される。同時に、本サイト内に『検証・免田事件[資料集]フォローアップ』が公開される。

 企画より3年余でようやく完成した。A5判・964頁と大部なものであるが、「第1章 通知」からはじまり「第9章 死」に終わる全9章と付属DVDからなる。付属DVDには、映画『免田栄 獄中の生』(1993年・小池征人監督・シグロ作品・88分)「ある死刑囚の手紙」(1960年、ラジオ東京・29分38秒)などが収録されている。

 免田事件は、1948年熊本県人吉市で起きた祈祷師一家殺傷で、免田栄さんが犯人として死刑判決を受けたものの、獄中から無実を訴え続け、6度目の再審請求の末、1983年に再審無罪となった事件である。

 本書には、捜査・裁判資料、報道記録、関係写真など計254点が収録されているが、圧巻は第2章で、免田さんが獄中から家族、支援者、弁護人にあてた手紙110点が収録されている。これらの手紙は、熊本日日新聞の記者だった高峰武氏と甲斐壮一氏が免田さんから2018年に預かったものである。このころ、熊本大学文書館(熊本市)が「足元の貴重な資料を残したい」との意向を持っていたことが分かった。このため、これらの資料を免田さんから同文書館へ寄贈する形をとり、高峰氏、甲斐氏、それに元RKK熊本放送記者の牧口敏孝氏の3人が同文書館の市民研究員として資料の保管・整理にあたった。同時に3人からなる免田事件資料保存委員会を作った。これが本書企画の出発点である。

免田さん夫婦が熊本大学文書館に寄贈した文机や辞書、手紙など(一部、2019〔平成31〕年3月撮影)。

 免田事件資料保存委員会の3人は1983年の再審無罪判決を熊本地裁八代支部で新聞、テレビの記者として直接取材、その後も40年近くにわたって免田さん夫婦と交流を続けてきた。資料集には免田さんから預かった資料に加え、熊本日日新聞、RKK熊本放送の資料、それに3人が持つ取材で集めた個人資料も加え全体で254点となった。

 免田事件資料保存委員会の高峰武・元熊本日日新聞記者は、次のように刊行までの思いを語っている。

 「それはひょんなことから始まった。2018年のある日。免田さん夫妻が住む福岡県大牟田市でのことだ。『家にある資料を何か役立ててくれませんか』。奥さんの玉枝さんが言った。免田さんが高齢者施設に入り、自分もまもなく入るのだという。免田さんが1925(大正14)年、玉枝さんが1936(昭和11)年生まれである。申し出の意味は分かった。とりあえず甲斐氏と二人で免田さんの自宅にあった資料を段ボールに詰め、当時勤めていた熊本日日新聞社に持ち帰った。そこで少しずつ資料を読み始めたのが、この資料集のスタートであった。

 この資料を読み解くために作ったのが免田事件資料保存委員会である。高峰、甲斐、牧口の3人は免田事件の再審無罪判決(1983年、熊本地裁八代支部)で直接取材した3人である。それぞれに取材上の役割と立場は違ったが、『なぜこんなことに?』という根本的な疑問を持っていたことは共通していた。会社の垣根を越えて今回の共同作業ができたのもこうした事件が持つ普遍的な問いかけがあったからのように思う。

 以来、約40年。免田さん夫妻とは誕生日や再審無罪判決日など節目の日に集まり、あるいは免田さんが大牟田の川でウナギを取ったと言ってはそれを肴に飲んだりしていたものだ。

 こんな歳月に大きな鉄槌をくらったような感じになったのが、今回の資料集だった。詳しくは本を開いてほしいのだが、例えば獄中から出された免田さんの手紙には、冤罪を晴らすとはどういう意味か、獄中から見る社会の実像はどうか、それらが免田さんならではの言葉で語られていた。生きることは学ぶこと、学ぶことは生きること——。刑事司法という問題を越え、日本の社会の普遍的課題にも届く提起を免田さんは続けていた。これらは資料集を編むことで気づかせてくれたことだった。残念ながら免田さんは2020年に95歳で亡くなり、資料集を手渡すことができなかった。

 編集の実務をとってくれた成澤壽信氏にも触れておきたい。無罪判決直後、私たちが熊本日日新聞紙上で連載した『検証・免田事件』を単行本化してくれたのが成澤氏であった。以来、『新版 検証・免田事件』『完全版 検証・免田事件』を出版、今回の資料集で4冊目である。これまた異例のことであろう。感謝したい。

 率直なところ、これで終わった、という感じがしない。今回の資料集に分量の関係で入らなかったものもある。事件の奥底まで私たちの視点はまだ届いていないのではないか、分厚くなった新刊書を前にして、正直そんな思いがしている」。

再審無罪判決を受け、釈放された免田栄さん(中央)。第一声は「自由社会に帰ってきました」だった(1983〔昭和58〕年7月15日、熊本地裁八代支部、熊本日日新聞社提供)。

 資料集担当編集者の成澤壽信氏は、免田事件との出会いから資料集編集までの経緯をつぎのように語った。

 「1980年代はじめに、免田事件には四死刑再審事件の一つとして出会った。その後、なぜ冤罪は起こるんだろうと取材を重ねた。冤罪への関心を深める切っ掛けになった事件で、この企画のお話が高峰さんからあったとき、これまでに免田事件について熊本日日新聞が連載した記事の単行本の編集もしていたので、二つ返事で引き受けた。

 冤罪の原因は、警察による誤った捜査、検察による誤った起訴、裁判官による誤った判断によるものだが、実は、弁護の問題もあった。日弁連もそのことにようやく気づき、1992 年に当番弁護士制度を全国に作った。弁護活動の充実・強化のための情報と理論を提供する『季刊刑事弁護』を創刊することに繋がっているのもこの免田事件で、たいへん感慨深いものである」。

 資料集はたいへん大部であるが、それでも全部の資料を収録することができなかった。そうした資料を収録する『検証・免田事件[資料集]フォローアップ』が、本サイト内に同時に公開される。登録すれば、だれでも閲覧できる。

 「刑事弁護オアシス」ではかねてから、『冤罪事件アーカイブ』を本サイト内に設けることを検討していたので、その準備段階として免田事件を取り上げることになったものである。

(2022年08月10日公開)


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