1966年に静岡県で一家4人が殺害された「袴田事件」で、死刑が確定した元プロボクサー袴田巖さん(84歳)の再審請求について、最高裁第3小法廷(林道晴裁判長)は12月22日付で、東京高裁の棄却決定を取り消し、審理を同高裁へ差し戻す決定をした。5人の裁判官のうち2人は再審請求を認めるよう主張。3対2で結論が決まる異例の決定となった。
今回の第2次再審請求では、静岡地裁が2014年3月に再審開始を決定した。死刑と拘置の執行停止も認め、袴田さんは逮捕から47年7カ月ぶりに釈放された。しかし、検察の即時抗告を受け、東京高裁が2018年6月に逆転の請求棄却決定を出したため、袴田さんの弁護団が最高裁へ特別抗告していた。司法判断が揺れ動く波乱の展開となっている。
差戻しの理由は味噌漬け衣類の「色」問題
今回の決定で最高裁は、袴田さんの弁護団が挙げた申立理由が憲法違反や判例違反には当たらず特別抗告の要件を満たさないとしながら、静岡地裁が再審開始に必要な「新規・明白な証拠」(以下、新証拠)と認定した2点について「職権により判断する」とした。
差戻しの理由に挙げたのは、そのうちの1つで、死刑判決が袴田さんの犯行着衣と認定した5点の衣類(半袖シャツやステテコ、ブリーフなど)の「色」についての新証拠だ。
5点の衣類は事件発生の1年2カ月後に、現場そばの味噌工場の醸造タンクから味噌に漬かった状態で見つかった。発見直後に撮影されたカラー写真を見ると、長期間味噌に漬かっていたにしては衣類の着色は薄く、血痕もはっきり識別できる。発見当時の調書や鑑定書には、血痕が「濃赤色」「濃赤紫色」「赤褐色」と表現されていた。
そこで、弁護団が支援者の協力を得て同様の衣類を最長1年2カ月間、味噌に漬ける実験をすると、衣類はもとの色が分からないほど味噌の色に濃く染まり、血痕の赤色も判別できなくなった。静岡地裁はこの実験結果を新証拠と認定し、5点の衣類が「1年以上、味噌に漬かっていたとするには不自然」との見解を示すとともに、捜査機関が発見直前にタンクに投入した「捏造」にも言及していた。
弁護団は東京高裁の審理で、味噌に漬かった血痕が黒色に近くなるのは、血液中のたんぱく質と味噌の米麹が生成する糖が結合して褐色化する「メイラード反応」によるものだ、とする花田智・首都大学東京(現・東京都立大)教授(環境微生物学)の意見書を新たに提出した。
しかし、高裁はこの意見書を審理のテーマにしないまま、醸造タンクに光が入らないことや、後から仕込んだ8トンの味噌の圧力、気温の影響を挙げて「メイラード反応はさほど進行していなかった」と受け入れなかった。結局、味噌漬け実験の証拠価値を否定し、再審請求棄却の決定を導いた。
弁護団は今回の決定が出る1カ月半前に、味噌漬け衣類の「色」に関する高裁の判断を厳しく批判する特別抗告申立理由補充書を最高裁へ提出したばかりだった(詳しくは『刑事弁護オアシス』の記事「味噌漬け衣類の『色』問題、高裁の判断は『極めて杜撰』/袴田事件の弁護団が最高裁へ補充書」をご覧ください)。
「専門的知見に基づく検討が必要」
最高裁決定は弁護団の味噌漬け実験について、醸造タンクで仕込んでいた味噌よりも濃い色の赤味噌が使われていると味噌工場の元従業員が証言していることを引いて「5点の衣類を発見した当時のタンクの味噌の状態を正確に再現したとは言えない」とした高裁の判断を踏襲した。
一方で、検察の依頼を受けて中西宏明・順天堂大准教授(法医学)が高裁審理の段階で実施した衣類の味噌漬け実験に着目した。この実験でも弁護団の実験と同様に、衣類に付着させた血液の色が遅くとも30日後には黒くなり、5カ月後以降は赤みが全く感じられなくなったことに触れて「長期間、味噌漬けされたことが血痕の色に影響を及ぼし得る要因などについて、専門的知見に基づく検討の必要性を認識させる」との見方を示した。
花田氏の意見書については、血液に対するメイラード反応の影響の有無や程度などを具体的に示す実験結果や資料が証拠として提出されていないとして、弁護団の味噌漬け実験の結果と併せても「1年以上味噌漬けされた血液に赤みが残ることはないと、ただちに断定することは困難」としながらも、高裁では花田氏の意見書に対して専門的知見に基づく反論はされておらず、「意見書が不合理な内容であると断ずることもできない」と述べた。
そのうえで高裁の決定を「味噌の色だけを根拠にメイラード反応がさほど進行していなかったことがうかがわれるとしたもので、推論過程に疑問がある」「味噌漬けされた血液に対するメイラード反応の影響が的確に推測できないとしたのも、専門的知見について審理を尽くしたうえでの判断とは言いがたい」と批判。「味噌によって生じる血液のメイラード反応に関する専門的知見」について「審理不尽」を指摘し、「高裁決定を取り消さなければ著しく正義に反する」と結論づけた。
高裁の差戻し審に対しては、メイラード反応をはじめ「味噌漬けされた血液の色調の変化に影響を及ぼす要因についての専門的知見の調査」を求めている。
DNA鑑定は新証拠と認めず
一方で最高裁は、地裁・高裁で審理の焦点だった本田克也・筑波大教授(法医学)によるDNA鑑定の信用性を否定し、鑑定結果を新証拠とは認めなかった。
本田氏の鑑定は、袴田さんが被害者ともみ合ってけがをした際に付いたとされる半袖シャツ右肩の血痕と、被害者4人の返り血とされた血痕のDNA型が、袴田さんの型や被害者の型とは一致しないと判定。静岡地裁は味噌漬け実験と共に新証拠に採用し、5点の衣類が袴田さんの犯行着衣だと断じた「死刑判決の認定に相当程度の疑いを生じさせる」として、再審開始決定の根拠にしていた。
最高裁は、DNA鑑定の対象になった5点の衣類や被害者の着衣には「血液由来のDNAが付着し残存しているとしても、極めて微量で変性・劣化している可能性が高い」と見立てた。また、今回の鑑定が行われるまでの衣類の保管状況などから、袴田さんや被害者のものではない「外来DNAに汚染されている可能性も相当程度ある」と位置づけた。そして、こうした事情による鑑定の「不安定性や困難性」をもとに、DNA型やその由来を正確に判定するのは「非常に困難な状況にある」と言い切った。
そのうえで、本田氏の鑑定結果に「外来DNAによる汚染を疑うべきものが複数存在」することなどを挙げて、「検出されたDNA型は血液由来のものと確定することができないうえ、型判定の正確性にも疑義がある」と切り捨て、本田氏のDNA鑑定結果の信用性を否定した高裁決定を支持した。
さらに時間をかけることになる
第3小法廷の5人の裁判官のうち林景一氏と宇賀克也氏の2人は反対意見を述べ、味噌漬け実験だけでなくDNA鑑定も新証拠と認定したうえで再審開始の決定を出すよう主張した。2人の裁判官は、静岡地裁の再審開始決定が「根幹部分と結論において是認できる」との見解を示し、「メイラード反応の影響などについて審理するためだけに高裁に差し戻して、さらに時間をかけることになる多数意見には、反対せざるを得ない」と記した。
多数意見が裁判官出身の2人と弁護士出身の1人によるものだったのに対し、再審開始を主張したのが外交官出身と学者出身の裁判官だったことは注目に値する。袴田事件に対する「法曹界の常識」はもはや社会的に通用しないと、外部の世界に身を置いてきた裁判官が体感していることの表れとみられるからだ。
なお予断を許さない再審請求の行方
袴田さんの弁護団は最高裁の決定を受けて静岡市で記者会見し、小川秀世・事務局長は「非常にうれしい決定。味噌漬け実験の結果があれば、5点の衣類が1年2カ月も味噌に漬かっていたことに合理的な疑いが生じると言っており、『血液の色』に集中して立証・主張をすることで早く再審開始にもっていけると期待している」と語った。
今回の決定により、地裁が出した死刑・拘置の執行停止が維持されることになり、当面、袴田さんが再収監されるおそれはなくなった。袴田さんの姉の秀子さん(87歳)は「巖は無実と思っているが、最高裁のこういう認定はありがたい」と笑顔を見せた。
ただ、今回の決定でただちに再審への道が開けたと受けとめるのは楽観的すぎるだろう。弁護団が重視してきたDNA鑑定の証拠価値を最高裁が否定したため、差戻し後の高裁での審理はメイラード反応をはじめ5点の衣類の「色」問題に絞られることが予想され、この部分で弁護団の主張が退けられれば再審請求が棄却される危険と背中合わせだからだ。
最高裁決定は、同じ味噌漬け実験でも弁護団のものよりも検察が依頼した中西氏のものを「醸造専門家の監修」などを理由に「5点の衣類が味噌漬けされた状況をより客観的に再現するための工夫がされた」と評価している。決定文には、検察が長期間味噌に漬かっても血痕に赤みが残る「可能性がある」ことを立証できれば足りる、とも解釈できる記述がある。差戻し審で検察は、豊富な資金や組織力を駆使して専門家の意見書を繰り出してくることが予想され、再審請求の行方は、なお予断を許さない。
最高裁は再審請求の棄却が袴田さんの再収監や、場合によっては死刑執行に直結するため、自ら判断することを避け、先送りしたのかもしれない。過去には、死刑判決が確定した「名張毒ブドウ酒事件」の第7次再審請求が今回と似たような経緯をたどっている。いったん認められた再審開始を高裁の異議審が覆したものの、最高裁は審理を高裁に差し戻した。しかし高裁は改めて棄却決定を出し、それを最高裁も追認したため、結局再審は実現しなかった。最高裁が差し戻してから棄却決定が確定するまで3年半を要した。
差戻し審で専門家による鑑定や実験が行われることになれば、年単位の長期化が必至だ。袴田さんは2021年3月に85歳になる。迅速な審理が求められる。
(ライター・小石勝朗
著書に『袴田事件 これでも死刑なのか』〔現代人文社、2018年〕)
(2020年12月28日公開)