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ゴーンさんの保釈はどのように獲得したのか

人質司法の原因とその打破の方策

~【後編】~
カルロス・ゴーン元日産会長の逮捕・勾留は、あらためて日本の刑事手続における長期の身体拘束問題を浮き彫りにした。新たに弁護人となってゴーンさんの保釈を獲得した高野隆弁護士に、身体拘束問題の現状をどのように見ているのか、今回の保釈をどのように獲得したのか、その弁護活動について聞く。

高野隆弁護士VS大出良知九州大学名誉教授


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6 保釈制度の現状を打破するために

大出 今回の保釈についての、具体的なことは一応伺いましたので、最初のところで強調されたことに戻って、保釈制度自体の現状についてご意見を伺いたいと思います。戦後の司法改革の中では、できる限り厳格な要件のもとで身体拘束を認めることしか許されないと確認されていたはずです。そういう議論が戦後の司法改革であったにもかかわらず、70年たっても今のような状況になってしまっている。それがまさに異常な事態なので、そのような保釈をめぐる問題状況を根本的に変えることが必要だと思います。そのためには、実践的にどういうことが必要なのか。お考えがあれば伺いたいと思います。

高野 一つは、日本の刑事司法制度の特徴ですが、身柄拘束が被疑者から供述を得る道具になっていることです。裁判官は、それを知りながら知らないふりをしているわけです。「罪証隠滅の虞がある」とか「逃亡の虞がある」だから身柄を拘束しなければならないんだというけれど、実態はそうではないのです。

 警察とか検察官が、被疑者から供述を得るため、知っていることを全部供述させて、それを調書に取るために身柄拘束している現実は、疑いようがありません。裁判所はそれを積極的に支援しています。捜査官の被疑者の供述への渇望を、罪証隠滅の虞という言葉に置き換えているのです。そこに、裁判官の捜査訴追側への肩入れとともに、「知的不誠実さ」というものを私は感じます。

 それとリンクされるかたちで、保釈が運用されています。捜査機関の意図しているような供述が得られない、あるいは黙秘しているから、この人の身体を拘束しなければならないと。そういう運用になっているわけです。

 今さら何だという話なのですが、身柄拘束問題と供述問題とはきっちり分けないといけません。建前ではなく、実態論のところで裁判官も検察官も弁護人も共通理解として認める必要があります。

大出 なぜ分離が当たり前のこととして通ってこなかったのか。学説の多数は、憲法で黙秘権が認められている以上、取調べ受忍義務は否定されていると言い続けてきたのですが、結局実務では全然動かないということできてしまいました。

高野 検察が、取調べないで起訴、不起訴を決められないという、ある意味、開き直りみたいなことを大声で言っていた時期があります。それがそのまま肯定されてしまっている現実が一つあります。

 もう一つは、その現実に対して、弁護側の戦略があまりにもなさ過ぎることです。黙秘とか調書への署名拒否という弁護活動も、私たちは20年以上前に始めていたのですが、なかなか定着しなかった。それらが当たり前だということにはならなかったですね。これは実に残念なことです。いま21世紀も20年が過ぎようとしていますから。

 裁判官は、被疑者の「供述態度」――要するに自白していない――から罪証隠滅の虞があるので、勾留を認める。弁護人も、勾留させないために早く供述しましょう、勾留を長引かせないために書証はできるだけ同意しましょうという弁護活動を行う。それがまた跳ね返ってきて、供述しないからとか、あるいは調書に同意しないから保釈は認めないという、悪循環のサイクルができあがってしまったわけです。

 それを断ち切るためには、無罪の推定や、黙秘権について、弁護士がもっと実践的に真剣に取り組む必要があると思います。

 私はブログ(https://blogos.com/article/351811/?p=2)に書きましたが、この現実を打開するためには、「自白している事件で保釈を認めてはいけない」とまでいう必要があるといまは考えています。私たちは、この人は罪を争っていないのだから、罪証隠滅の虞はない、だから保釈してくださいという書面を書きますが、それはコインの一面です。そのことによって、自白をしていない、書証に不同意だから、保釈は認めなくていいという信号を送り続けているわけです。だとしたら「自白していますから、保釈を認めてください」ということはもうやらない。そこは「私の依頼人は、自白して罪を認めています。有罪ですから、保釈を受ける権利はありません。だから、裁量保釈をしてください」、あるいは「勾留を取り消してください」と申立てをするべきです。こちらは、無罪の推定を受けられない立場なので、「権利保釈ではありません」ということを言うべきです。

大出 何が原則かをしっかり見極めることがいかに大事かということですね。ちょうど25年前だったかと思いますが、高野さんたちがミランダの会をつくられて原則的な弁護を宣言されたました。そのとき、「季刊刑事弁護」としても、及ばずながらバックアップさせてもらったつもりでいましたが、結局、会員は、原始メンバー以上には増えなかった。私たちは、高野さんたちの努力がもっと広がると思ったのですが、結局広がりませんでした。先ほど言われたように「弁護人の問題だ」と言えば、その通りでしょうが、具体的にそのこと自体の背景はいったい何か、その打開可能性はいったい何なのか、という点はいかがですか。

高野 ミランダの会のメンバーは、確かに増えなかったけれど、『季刊刑事弁護』のおかげで、「ミランダの会がやっている弁護活動は正しい」ということに、それなりの浸透力はあったと思います。今、否認事件などで、黙秘の助言をするとか、署名拒否をする助言は、当たり前のこととして行われてきています(詳しくは、『ミランダの会と弁護活動』を参照)。その意味では、「ミランダの会のやったことが、全然浸透しなかった」とは言えません。身柄拘束下での取調べに対する実践的な戦略としては、一定の範囲で定着したと思います。問題は、そこから先だと思います。

 そういう戦略をとるときに、「身柄が長期にわたって拘束されます」ということを前提にやっていますが、それをどう打開するか。

 その方法として、弁護人側から、罪証隠滅の虞は絶対ないぐらいの保釈条件を提案するのも一つのやり方と思います。実際にそれをやることによって、保釈を広く認めさせる。つまり、起訴されて数日以内に保釈して、「それでも罪証隠滅などは起こりません。安心して裁判を実行できます」という実績を積み重ねていくのは、一つの在り方だと思います。

大出 弁護側の姿勢だけでなく、身体拘束に対する裁判所というか、裁判官の意識や姿勢にも問題がありますね。

高野 身柄拘束に対する裁判所の姿勢が、あまりにも検察官の言いなりに近い状況が続いてきています。身柄拘束されることは処罰を受けているのと同じです。まだ有罪宣告を受けておらず、裁判の日取りすら決まっていないのに、刑の執行を受けているのと同じです。裁判で無罪になっても、職を失い、家族を失い、健康も失っている状況になってしまうわけです。それが公正な裁判と言えるのか、もっと真剣に考えなければいけないと思います。裁判官を長年やってきた人たちが、裁判官を退官して弁護人になったときに、そのことに初めて気が付くわけです。こんな国は日本しかないでしょう。

大出 裁判官に保釈の状況をきちんと認識してもらわなければいけないわけですが、方向性として、今の時点で何か考えられることはありますか。

高野 そこは、すごく見通しが暗い。現代の裁判官は「釈放したら、検察官の書証を全部不同意にするだろう。弁護側もいろいろな事実や証拠を出してくるだろう。そうすると、裁判が長引く。身柄を拘束していれば、それを梃子に、書証が同意されて、裁判が短くて済む。効率的に事件が片付く」と考えているのではないかとすら、私は思います。

大出 まさに、人質司法ですね。

高野 自分の事務処理を効率化して生活をしやすくするために、被告人の自由や社会的地位を平気で奪う。そのためには言葉遊びをして法律の趣旨を変えてしまうことも辞さない。眼の前に生身の人間がいて、彼にも人生があり仕事があり、家族があるということに想像力が及ばない。あるいは及ばないふりをしている。そんな、どうしようもなく「小役人」みたいな人間がわれわれ市民の自由の線引をしているのです。

大出 裁判所ももちろんそうですが、「裁判所は、なぜそういう意識にとらわれるのか」と言ったときに、日本の訴追制度にも問題があると思うのですが。「検察が起訴してきているものは、99.9%有罪だ」ということに繋がる問題です。日本の場合、検察は有罪であると確信した段階で起訴しているので、保釈されるべき人間、あるいは拘束されるべきでない人間は、一応排除されているという幻想があります。まさに検察の訴追裁量の肥大化につながることだと思うのです。

高野 そのとおりだと思います。私たちは、無罪推定があるから、裁判で有罪になる前の人を身柄拘束するのはおかしい、それはできるだけ避けなければいけないと考えますが、裁判官はそう考えていないわけです。「検察官が起訴したら、ほとんど有罪になる。だから、今のうちから身柄を拘束していいんだ。仮に無罪になったら、それは、刑事補償でいいんだ」というぐらいに考えていると思います。

 「原則が有罪で、例外が無罪だから、無罪の人のことを予め考えなくても良い」ぐらいに考えていると思います。しかし、そこに大きな過ちがあるわけで、自由が奪われたら、全てを失うことになります。ですから、「裁判で有罪になるまでは無罪だ」と言っておかないと、取り返しがつかないわけです。その現実を変えるためには、「無罪率が増えないといけない」というのが私の結論です。

 では、無罪率を増やすにはどうしたらいいのかといったら、検察に起訴してもらうしかないんです。検察に起訴させるためには「無罪判決は、検察の負けじゃない」という意識を浸透させること。つまり、検察の有罪至上主義を変えることだと思います。無罪であっても、それは正義が実現したのであり、検察は立派に仕事をしたのであって、検察の起訴が間違っていたわけでも何でもないという風土にする必要があります。

 ところが、今は全く逆で、無罪になったら、それは「警察と検察が間違えて起訴したんだ」と、マスメディアは警察や検察を非難する。そうすると、ますます検察は起訴を絞ります。起訴を絞ると、有罪であることがはっきりした事件ばかりだから、必然的に無罪率は減ります。無罪率が減ると、裁判所は、有罪の推定をして、否認したら保釈を認めないということになる。そこは、悪循環になっているわけです。

 無罪推定を機能させるためには、無罪率が2割とか3割にならないといけません。

大出 基本的な認識は、私も全く一緒です。検察の権限の問題が、その意味では、身体拘束に戻ってくる話です。

高野 戻ってきますね。

大出 それをどう是正していくかとだと思います。随分前ですが、訴追裁量問題の調査でイタリアに行ったことがありました。検察官から聴いた話では、イタリアの無罪率は50%ぐらいだと言っていました。それは、起訴法定主義だからなのですが、検察官は、起訴して無罪になったからといって、「何で、そんなことで責められなきゃいけないんだ」と、あっけらかんとしていました。自分たちの地位や評価に何の影響もないぐらいのところまで行かないと、解決しませんね。それは、日本の裁判官も含めて検察のキャリアシステムの中で、官僚主義という評価によってポストが決まっていくみたいなところにまで、全部影響しているという感じもします。

最終的に言うと、無罪推定というものを、本当のところで、どう具体化していくのかということにまでつながっていくことだと思います。

(2019年09月04日公開) 

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