そこは江戸時代に密貿易で栄えた港町だという。鹿児島市内から2時間あまり車を走らせると、九州の南端にある半島の、人口1万8000人あまりの町にたどりついた。海岸線に沿った国道に地元銀行が2つ、本屋が1軒あるあたりが町の中心であった。
埋立てで生まれたに違いない港は、鹿児島県の辺境には破格の大きさである。沖に突き出た埠頭にトロイの木馬のような巨大なクレーンが見える。造成中の埠頭には、沖縄と東京を結ぶ約8000トンの輸送船「ありあけ」が停泊している。上海行きの定期航路まで開かれ、貨物の取扱量は年間1000万トンを超える港だという。
地方交付税の先細りに怯える自治体の多い地方にあって、石油備蓄基地があり、大手の埠頭業者や倉庫業者が支店を置くこの田舎町は強い政治力によって保護されている地域、ひきのある土地なのであろう。そこはもちろん自民党の牙城であって、保守的な政治風土を持つ地域であった。
2年前、2003(平成15)年4月の統一地方選の県議選では、定数3の曽於郡選挙区に4人の自民党候補が立った。3人の現職県議と1人の新人が闘い、草の根戦術を使った新人候補が周囲の予想を裏切って当選した。得票数約1万3300、4位の現役との差は2000票あまりである。ありきたりの言い方をすれば新旧の交代劇にすぎないが、この番狂わせが異様な捜査手法を含む選挙違反事件立件のきっかけとなるのである。
志布志町の高台でビジネスホテルを営む川畑幸夫は新人候補・中山信一と姻戚関係にあった。選挙に特別な役割を果たしたわけではないが、中山のイトコにあたる妻・順子とともに中山を支援し、2003年4月13日の選挙当日は、深夜まで中山の宴に加わって当選の喜びを分かち合った。
白い車に乗った3人の男たちの来訪を受けたのは、翌日の朝8時のことである。ホテルのフロントで男たちを迎えた川畑順子は、彼らが刑事だと知って気軽に隣接した自宅に案内した。幸夫は志布志警察署のモニターを数年間務めており、出張してきた警察官を泊めるのも日常のことだった。その朝まで、警察は身内のようなものと、夫婦ともに考えていたのである。
以下は、現在、国家賠償請求事件(志布志国賠訴訟)((志布志国賠訴訟
志布志事件では、以下のように捜査機関による様々な違法行為があった。えん罪被害者とその弁護人は、4つの国家賠償請求を提起した。事件発生から13年かかって、全ての訴訟で勝訴した。
①踏み字国賠訴訟
川畑幸夫さんが、刑事事件の係属中の2004(平成16)年4月9日に、鹿児島県を被告として提起したものである。2007(平成19)年1月18日、鹿児島地裁は、2003(平成15)年4月14日から、取調べた刑事が幸夫さんに対して、同月16日の取調べの際に、志布志警察署取調室で、親族の名前などを自ら書き記した紙三枚を十数回踏ませる(国賠訴訟では少なくとも3回と認定)という不法な有形力を行使したこと(踏み字)。また、任意捜査における退去の自由を制約し、令状なしに身体の捜索をするなどの違法行為により、幸夫さんに精神的苦痛を与えたこと、を認定した。そして、鹿児島県に対して、60万円の支払いを命じた(LEX/DB28132119)。
②秘密交通権侵害国賠訴訟
捜査機関が被疑者らと弁護人との接見内容を取調べで聴取し、これを調書化した。弁護人らは、これらの行為は弁護人に対して絶対的に保障されている秘密交通権を侵害する違法な行為であるとして、2004(平成16)年4月16日に、国賠訴訟を提起した。2008(平成20)年3月24日、鹿児島地裁は、ⓐ秘密交通権が絶対的に保障される弁護人固有の権利ではないが、ⓑ必要性・相当性が認められない限り、聴取することは許されないとして、捜査機関による組織的な秘密交通権侵害の事実を認定して、弁護人らの賠償請求を認めた。一人あたり50万円の支払いを命じた(LEX/DB28141808)。
③ たたき割り国賠訴訟
踏み字国賠訴訟と併行して、警察による取調べの被害に遭った志布志町の住民8名が、2006(平成18)年10月27日に、鹿児島県を被告として、国賠訴訟を提起した。志布志事件そのものが捜査の着手段階から買収嫌疑がなかったこと、その違法な取調べによる虚偽自白を端緒とした取調べの違法を訴え、さらに、原告らに対する個別の叩き割りによる取調べの違法を主張した。鹿児島地裁は、2015(平成27)年5月15日、一部勝訴判決を下したが(LEX/DB25541141)、原告らが控訴して争った。2016(平成28)年8月5日、福岡高裁宮崎支部は箝口令による取調べの違法を認め、一人あたり60万円から115万円の支払いを命じた(LEX/DB25543984)。
④無罪国賠訴訟
2007(平成19)年10月19日に、無罪判決を受けたえん罪被害者及びその遺族が、捜査着手段階からの嫌疑なき捜査(特に取調べ)の違法、起訴等の違法(及び公訴を維持したことの違法)を主張して、鹿児島県及び国を被告として、国賠訴訟を提起した。鹿児島地裁は、全員について、2015(平成27)年5月15日に、警察・検察の違法行為(主に取調べの違法と公訴維持の違法)を認定し、一人あたり40万円から460万円の支払いを命じた(LEX/DB25540969)。
参考文献
・日本弁護士連合会編『えん罪志布志事件 つくられた自白』(現代人文社、2008年)
・野平康博「志布志国賠訴訟」葛野尋之・石田倫識編著『接見交通権の理論と実務』(現代人文社、2018年)188頁以下))として争われている「踏み字事件」の原告・川畑幸夫の主張を整理したものだ。
幸夫は任意同行を求められて快諾した。様子が違うと思ったのは、彼らの車に乗せられた時だった。後部座席に座ると、わざわざ両脇を固めるように刑事たちが乗り込んできたのである。
志布志警察署に着くと、幸夫は取調室に入れられ身体検査を受けた。迎えにきた刑事の一人A刑事は、豹変した。
「何でそこに座っているか意味がわかるだろう」と声を荒げた。手の平で机を叩き、
「ビールを配っただろう」と追及した。
「知りません」
「ウソをつくな!」
「狭い部屋ですから、大きな声を出さないでください」
「ワイ(おまえ)が黙れ! ワイが悪いことをして逮捕されたから、娘婿も仕事を辞めかただよ(辞めなければならないぞ)」
取調べは当日の深夜11時まで続いた。幸夫がトイレに行く時も見張りがついた。確認のためにあえて書くが、任意同行である。刑事は、幸夫に中山信一の選挙運動にからんだ買収容疑を認めさせたいようであった。
A刑事は翌日も翌々日も朝8時に迎えに来ている。住民にビールを渡した、という言質を取ろうとするが、幸夫は否定する。A刑事は容疑を認めない幸夫に、机を叩きながら「おまえはバカか!」と罵倒した。さらに「ワイは借金があって、ボランティアだって」と人格を否定する。ストレスのために血圧が上がった幸夫は頭痛と吐き気に襲われ、ようやく病院での診察を許されたものの警察署に連れ戻されて夜9時頃まで取調べを受けた。
3日目、幸夫は「弁護士を呼んでください」と主張して、朝から黙秘を続けた。午後3時か4時頃、書記役を務めていたB刑事が「川畑さん、取調官の先生の言うことを聞いたほうがいいですよ」と忠告した。その後、A刑事の異様な行動が続く。A刑事は幸夫のそばでしゃがみこみ、「川畑の股ぐらに頭を入れろと言うなら入れるよ」と言って、椅子に座った幸夫の股間に頭を入れてきた。
A刑事は泣き落としが効かないとみると、A4判の3枚の紙に、次のようなセリフをマジックで書きつけた。
「お父さんはそういう息子に育てた覚えはない」
「元警察官の娘をそういう婿にやった覚えはない」
「沖縄の孫 早く優しいおじいちゃんになってね」
幸夫の父、義父、孫のセリフをA刑事が創作したものである。
その3枚を足下に並べると、A刑事は「反省しろ」と言って取調室を出て行った。しばらくして戻ってくると、A刑事は幸夫の足首を持ち上げた。
「このワロ(この野郎)は、血も涙もないやつだ。親や孫を踏みつけるやつだ」
A刑事は、幸夫の足を操ってセリフを書いた紙を何度も踏みつけさせた(ここまでが踏み字事件)。
このような自白を強要するための強引な取調べを、警察の隠語で「叩き割り」というのだと、本件を内部告発した文書の主は語っている。
後にわかった容疑のきっかけは次のようなものだった。2003年の正月、幸夫は前年に長期連泊の客を斡旋してくれた建設会社にビジネスホテルの名前を書いた熨斗つきのビールひと箱(350mℓ缶24本)をお礼に贈った。建設会社の事務所に、ビールが置かれていたのを見た誰かが買収の噂を立てたのではないか、というものだった。事実、警察は複数の志布志の建設会社に対して、裏づけの取調べを行ったが、かんばしい結果は得られなかった。
しかも幸夫が「叩き割り」に屈服しなかったため、「ビール口事件」と呼ばれる捜査は挫折する。
そこで、買収の相手を求めて、捜査陣は新たな選挙違反事件を創作していくのである。
(季刊刑事弁護43号〔2005年7月刊行〕収録)
(2019年06月06日公開)