5 刑事事件から得た教訓
——たいへん苦労して無罪を獲得したのですが、その事件から得た教訓はありますか。
阿部 捜査機関というのは、いったん起訴したら、有罪にするためには何でもやるんだなということです。また、弁護人の立場としては、被疑者、被告人本人が「やったのは間違いない」と言っていても、その発言を疑いの目で見なければいけないんだと思いました。さらに、自分一人で考えることには限界があるんだということも実感しました。泰雄先生にはいろいろ教えていただきました。
——被疑者の「私がやってます」という発言については、それだけ聞いてみると、そんなに疑問を感じなかったのですか。
阿部 そうですね。疑問というか、随分あっけらかんとしているなという感じなので、あんまり重大なことをやってしまった感はなく、それで違和感は感じていました。
——その違和感というのは、刑事弁護を何件かやってきた中で培われるものなんでしょうか。
阿部 その頃、一番最初に受けた否認事件で、全部きれいに否認している車の恐喝事件がありました。被疑者は「私は犯人ではない」と言うのですが、その車は彼の所にあるわけです。彼自身、実は執行猶予中で前科も恐喝なのですが、「間違いなく絶対やってない。あの車はもらったんだ」と言うわけです。ほんとかなと思いましたが、最終的に無罪になりました(詳しくは、座談会/若手弁護士奮闘記 第16回東北弁護士会連合会「遠さにも、雪にも、人手不足にも負けず」季刊刑事弁護23号〔2000年〕82頁参照)。
ということもあって、被告人が「やってない」と言う場合は素直に聞くべきだと思いますし、逆に「やった」と言う場合でも、ある程度疑いの目を持つべきだということですね。
6 被疑者・被告人との信頼関係をどう築くか
——刑事弁護の中では、被疑者・被告人との信頼関係をどう築くかが重要だと言われていますが、阿部さん自身はどういうところに気をつかっているんですか。
阿部 基本は、民事事件での法律相談でも一緒だと思うのですが、まず相手の話を聞くことです。要するに、脈絡がなくても、こっちが聞きたいことではないにしても、とにかく話させることです。最初のうちは口を極力挟まないでひたすら聞くことに徹する。そうしないと、「こういうことだったの」と言って、「うん」とか言われても、実はものすごく危ういんです。巷間言われていることですが、クライアントに対するインタビューで変な誘導をすると、実際と違うことが事実として、弁護人ないし弁護士の頭にインプットされることがあります。
ですから、極力素直に、言うがままにというか、テクニカルな言い方ですと「オープンクエスチョンにする」ことなんでしょうけど、時系列とか、何を聞きたいかとかあんまり構わずに、聞くことです。そこは重要かなと思っています。「弁護士さんが自分の話を聞いてくれている」ということが、信頼関係につながる第一歩だと思います。
——そういう脈絡がないことをずっと言われると、辛抱強くないと、聞いてるのが面倒くさくなってくると思うのですが、そのときはどうしますか。
阿部 接見では、1時間、2時間は珍しくないです。登録して間もない頃は、体力も比較的時間もあったので、このぐらいかけるものだと思っていました。
7 なぜ刑事弁護をやるのか
——接見にも時間かかるし、苦労が多いのが刑事弁護だと思います。それでも、なおかつ刑事弁護をやる魅力は、どんなところにあるんですか。
阿部 権利を守るというのか、国家権力だったり社会的権力だったり、そういった巨大な権力に対峙させられている社会的に弱い立場の人たちの側に立って、その人たちを守るという矜持でしょうか。
もともと弁護士になろうと思ったのは、さっき申しあげたように地元で働くことが一番の目的でした。
しかし、大学1年の頃に、弁護士は強い者の側に立つのではなく、弱い者の側に立つんだという考え方に変わったんです。司法試験を受ける人たちの集まりの面もあった大学の読書会というか、サークルがあって、そこで弁護士さんを訪問したり、いろんな事件の当事者と会ったりする中で、考え方がたんだんと変わってきたと思うんです。
そのサークルに、現在、神奈川県の横須賀市で弁護士をやっていた呉東正彦先生が顧問的な立場でいらっしゃいました。呉東先生は、当時、宇都宮健児先生の事務所におられたので、豊田商事事件の模造の金塊だとかを見せていただいたり、都民総合法律事務所におられた高山俊吉先生の所に行って、交通事件の弁護の話をうかがったり。また、教科書検定問題で家永三郎先生に会いに行ったり、そんなことをやっていました。
——そうはいっても、刑事弁護は経済的な負担が大きいでしょう。
阿部 もちろん刑事弁護はもうかるものではありませんが、たまたま私は、登録初めの頃は事件が結構うまくいっていたので、無罪がでると刑事補償が出て、それなりに報酬をもらえたりしていました。おかげで負担感はあまりなかったような気がします。
今と多分違うのは、私の登録当時は、弁護士の仕事の3割ぐらいは、消費者金融がらみの破産・債務整理だったと思います。そちらで継続的に一定の収入があり、普通の民事事件もそれなりにやっていたので、売り上げとしてはそんなに少ないわけでもなく、十分でした。
もちろん「割に合わない」と思ったこともあります。最初の恐喝事件は国選事件でしたが、8回公判があって、仙台から登米支部という所に、当時だとバスや電車を使って1時間半かかって行きました。勾留場所も古川という支部で、接見には新幹線を使って行きます。何回も行きましたが、報酬は20万円ぐらいで、交通費も込みですし、無罪になっても加算報酬は出ません。そうなると、いくらなんでも「うーん」と思ったりもしましたが、そういうものだという感覚でいました。
しかし、一般的に言って、地方で刑事事件だけでやっていくのは、ものすごくきついのではないかと思います。
——それは、刑事事件があまり多くないということですか。
阿部 今も当時も、多くはないと思います。2005年〜2008年ぐらいまでは、弁護士が少ないので、刑事事件を同時に何件も持つことはあたりまえで、私は、ピークで同時に刑事事件を21件持っていたことがあります。その後、「司法改革」がなされて、弁護士数がどっと増えたのが59期ぐらいだったと思います。59期が弁護士になるのが2006年ぐらいで、その頃から、事件の取り合いみたいな傾向が出てきたように思います。
(2019年05月28日公開)