——今年の秋、『季刊刑事弁護』が創刊100号を迎えます。それを記念していろいろな企画をしているのですが、その一つが刑事弁護に関する情報や知識を集めて発信するこのポータルサイトです。法廷だけからは、弁護士がどんなことを考えて仕事をしているのか、その素顔はなかなかわかりませんので、それを知っていただこうというのがこの「刑事弁護人の泉」です。刑事弁護に立ち向かう心情とか、刑事裁判に関していま考えていることを、弁護士にお聞きするインタビュー企画です。その第1回目は京都弁護士会の遠山大輔弁護士にご登場いただきました。
『季刊刑事弁護』との出会い
——『季刊刑事弁護』は1995年1月に創刊されました。遠山さんは大学生のときに初めて『季刊刑事弁護』と出会ったということを聞きましたが、その時の印象を教えてください。
遠山 1993年入学で、この創刊の1995年1月は二回生の終わりです。入学して最初は法律にあまりなじめなくて、二回生からようやく勉強しはじめたんです。法学部生らしくなったときの冬です。京都大学生協で平積みになっているのを見て、「これだっ!」っていう感じで、目の前がぱっと開けたことを記憶しています。「こういう雑誌が出ているんだ。面白そうだな」という感じでした。
——そのときは、将来は弁護士になるんだと決めていたのでしょうか。
遠山 当時、アウトドア系の勉強サークルに入っていました。そのサークルの活動の仕方は、原発の勉強をしようと思ったら、本を読むのではなくて現地に行って原発推進派の人にも反対派の人にも話を聞く、戦争の勉強をしようと思ったら、沖縄の戦争体験者のところまで行って話を聞くということでした。その途中は基本ヒッチハイクです。その影響もありました。それと私の父の影響が大きいですね。小さいときから反体制派的な思考を自然と身につけられたので、そういう方向になじみがあったと思うんです。
——お父さんは組合運動とかをしていたんですか。
遠山 小学校の先生で、いわゆる出世しないタイプです。君が代と日の丸が大嫌いで、いろいろ運動していました。入学式にも卒業式にも日の丸を掲げさせない、みたいな。また、家には、父が読んでいた狭山事件1)の本がいっぱいありました。その頃、小学生で「鴨居の万年筆」を知っているのは私ぐらいだったと思います。地元にはいわゆる同和地区(被差別部落)がありまして、父は同和教育にも心血を注いだ人です。反抗期には反動で私は完全にノンポリというか、いったん保守派に振れるのですが、やっぱり小さいときの教育というか雰囲気が、私を反体制派に固めたんでしょうね。それと、私自身はもともと江戸川乱歩が好きだったから、そっちの流れだったのかもしれないです。
注/用語解説 [ + ]
(2019年02月04日公開)