(前編:外国人たちの絶望、死と隣り合わせの現実)
うだるような日差しが傾いて、少しずつ空気が澄んでいく、夏らしい夕暮れだった。私たちは駅でデニズさんと待ち合わせて、近くの公園へ向かおうとしていた。
「こんにちは」、駅にやってきたデニズさんを見つけたちょうどそのとき、デニズさんの後ろでスーツ姿の男性が、駅の階段を踏み外して最後の2段を転げ落ちるのを見た。
「大丈夫ですか」、考える暇もないくらいすぐに、まっさきに男性に駆け寄ったのはデニズさんだった。デニズさんは男性を助け起こし、まわりの人が行き過ぎる中で「けがはない?」と聞く。
「大丈夫です」男性は答えて、きまり悪そうにデニズさんに頭を下げ、足を引きずりながら駅の中へ去った。私たちが挨拶をする前の、ほんの一瞬のできごとだった。
入管センターを出ても続く、苦しみ
入国管理センターに収容されていたデニズさんを訪ねたのは冬の終わり。季節は移り、仮放免中のデニズさんに外で再会したときはもう夏だった。白雲がちりばめられた空に、日差しは強く、私たちは噴き出す汗を拭いて公園まで歩いた。
コロナ対応もあって、そのころ仮放免を受けていた人は多いようだった。
「久しぶりだね」とデニズさんは公園の椅子に座り、にこっと笑って明朗な声で言った。「あなたが面会に来たこと憶えているよ。でもその後のことはあまり憶えていない。最後の3週間で、10回の自殺未遂をした……」
デニズさんが見せてくれたメンタルクリニックの診断書には、「統合失調症、外傷性ストレス」などと記載がある。
「入管で、身体にも、精神的にも、たくさん暴力を振るわれたから」
デニズさんは入管職員から受けた暴行を中心に、入管センターを管轄する国を訴えている。
裁判になった暴行シーンはニュースでも取り上げられているが、これは訴訟過程で提出されたビデオを抜粋したもので、もとの映像は35分にわたる。
その「フルバージョン」は、真っ暗な画面に響き渡る職員たちの怒鳴り声と「足引っ張れ」、デニズさんの「助けて!」から始まる。「はーい抵抗するなー」「はーい器物そんかーい」と、暗闇にねじ伏せるような大声。
5分のところでハンディカメラが揺れ、とつぜん明るい部屋に7人の職員の後ろ姿が現れる。職員の中央には、四肢を担がれる上半身裸のデニズさんがいた。デニズさんはまるで物のように床に置かれ、ごろりと転がされた。
「痛い、やめて」ともがくデニズさんに、職員たちは「痛いか!?」「抵抗しなーい!」「静かにしろ!」と大声で威圧し、指を首にぐりぐりと押し込む。職員の数は増えていき、制圧行為はそれから10分続く。デニズさんの右こめかみが切れて血が出ている。一方的な暴力の映像だった。
暴行の後、隔離処分を受けたデニズさんはすぐに不服を申し立てた。それについて入管センター側も、「不服には理由がある」との判定書で回答した。
ところが国は訴訟の中で、この暴行は違法ではないと主張している。
入管の人たちから見たら『人間のくず』
訴訟の手続きは緊急事態宣言を受けて止まっていた。
「裁判止まってるけど、私、次にまたいつ入管センターに戻されるかも分からない」、デニズさんは不安を語りながら、収容時のことを振り返る。
「入管にいるあいだ、今回裁判してる暴力だけじゃなく、そのほかにもたくさん暴力があった」
「私たち、入管の人たちの目で、『人間のくず』なの。『自分の国へ帰れ』と何度も言われた。『私クルド人だから、トルコに帰れない』といっても、『そんなの知らん、トルコに帰れ』『国で死ね』、『ここ私たちの国、あなた要らない』って」
「送還の航空券を準備するチケット担当の人にも、『国帰りますか?帰ってください』、ずっと言われた」
「刑務所に入るのは何年か決まってるけど、入管は(期間が)決まってない。私、4年もいた。そのあいだずっと、なんでもダメダメダメと言われた。病院に行きたくても、刑務所なら行けるのに、入管では行かせてもらえない。診断書も書いてくれないし、外の病院に行かせてもらえない。センターの中にもいろんな医者が来たけど、いいドクターは長くいない」
「自殺未遂したことを全然覚えていないのも、薬のせいだと思う。日本でもアメリカでも2錠までといわれている薬を、4錠処方されたから」
「誰も助けてくれない。何人が身体悪くなったと思ってる?」
「4年間、生活ルールの本を読みたいと言いつづけた。でも、見せてもらえないまま、懲罰房に入れられた。だけど私はまっすぐだから、これはダメだと思うことはダメだと言う。裁判もする。だから狙われる」
狙われても、デニズさんは入管の外にいるあいだ、難民の日のイベントに登壇し、精力的に取材を受けている。
外に出ても苦しい日々
「今、やっと外に出られた。でも奥さんと一緒に幸せのときも、入管のことが頭から離れない」
「入管では、部屋にいる私たちをチェックするために、担当たちが鍵を持ってきて、外からドアを開けて、閉める。だから今も、鍵の音を聞いたら、こわくなる」
トラウマを語るデニズさんの声が抑揚をなくし、沈んでいく。
「心の中から、涙がいっぱい出てる。私の普通の4年、奥さんと一緒の4年、なくなっちゃった。今も毎日、涙出る。毎日……」
デニズさんは言葉を絞り出すように声を出すと、視線を上げ、広場で走り回る子供たちや、噴水の前で自転車を止める大人を、談笑するカップルを見つめる。
今までの豊かな表情は消えて、彼はじっと、動きのない目で人々の輪郭を見つめる。その瞳は色彩がなく、暗い。
「見てよ、みんなは幸せで、仲間と一緒で、普通に生活だけど、私はそういうことできないよ。私、今、何をしたらいいか分からない。心の傷……大きい」
「今、奥さんと一緒は嬉しいですけども……」声を詰まらせながらデニズさんは続ける。「やっぱり中ですごいいろんなことあったから……」
「つらい。毎日暴力の夢、見てる。寝たくない。夢のせいで。眠りたくない。悪い夢いっぱい来るから。毎日……思い出して……」
そのままデニズさんはしばらく絶句した。まわりのざわめきが遠のいていく。大粒の涙がぽろぽろとデニズさんの頬を伝っている。さっきまで青かった空はいつの間にか橙色の雲を浮かべていた。
クルド人としての苦難
デニズさんはトルコで生まれ育ったクルド人だ。
トルコのほか、イラクやイラン、シリア、アルメニアなど中東に分断されているクルド人は、各地で迫害を受け、世界中に難民として亡命している。
世界ではその苦難は理解されており、クルド人の45%以上は難民として認定されている(2018年)。ニュージーランドに亡命したクルド人難民が文学賞を受賞したというニュースも新しい。
「私も、大人になるにつれて、クルド人の問題が分かってきて、デモに参加したこともあった。反クルド人の人たちに狙われて、ナイフでいきなり太ももを刺されたこともあった」
「警察でも暴力を受けたことがある。このままだと殺される、と思って、日本に逃げてきた」
デニズさんは2007年に日本に到着してから難民申請をしているが、13年経った今も難民とは認められない。
その背後には、トルコ政府と親密な関係のある日本政府が、クルド人を正面から難民認定しないという政治的事情がある。クルド人を「クルド人」として難民認定することはトルコ国内に政治的迫害があることを認めることになるからだ。
「認定」されない限り難民として扱われないから、日本にいるクルド人たちはずっと不安定な立場のままだ。
「日本の入管は、クルド人いつでも捕まえられる」デニズさんはいう。そのデニズさんも入管に捕まって、暴力を受けた。トルコでの暴力から逃げてきたのに、日本でもまた、暴力を受けた。
(2021年12月03日) CALL4より転載