事実ではなく憶測で評価が生じる怖さ──「事実を確認できる場所を作りたい」
よく考えてみると、安田さんがバッシングされている「迷惑」とは「拘束・解放により国の税金が使われたから」ではなく、「拘束・解放により国の税金が使われたかもしれないという噂があるから(ただ、本当の事実は誰にも分からない)」だ。
「税金といっても、どこに何が使われたか、本当に使われたのかも含めて、政府の報告書もないので事実関係は分かっていないんです。しかし事実関係を確認して議論する人は少ない」
「今回の訴訟にあたっても、旅券法の条項や、訴訟の経緯を、事実にもとづいてきちんと議論する報道は少なかった。旅券法13条1項『1号』と『7号』という異なる条項を混同した指摘も見られた」
訴訟支援サイトCALL4を通じて裁判情報を公開することにも当初はためらいがあったと安田さんはいう。それは、「裁判は売名行為なのではないかと、ずっと言われていた」からだという。
「それでもサイトへの掲載を決めたのは、訴訟資料を掲載することで、事実関係や法律をまとまった形で確認できる場所があることが必要だと思ったからです」と安田さん。また、CALL4にはクラウドファンディングの機能もあるが、「集まったお金の使い道は明確にする予定」だという。
「日本にはちゃんと憲法や法律がある。裁判を知ってもらうことで、どういう事実があるか、どういうルールがどうやって作られたかを、多くの人に理解して議論してもらう。そうすることで、社会が、そのときの気分とか、そのとき力のある人が一時的に考えた方向に流れていくのを回避できる。多くの人々が参加できる社会になるはずです」
誰もが矛先になる
「今回のように、事実ではなく、憶測にもとづいて『迷惑』だ、『だから非難されていい/罰していい』という考え方が通るようになると、何が『迷惑』なのか、慮るしかなくなる」と安田さんはいう。
しかし、何を「迷惑」ととらえるかは人によって違う。
「迷惑」と糾弾される矛先に、自分だけはならないと、言い切れる人はどれほどいるだろうか。
「私はシリアなんて行かないから大丈夫」、「私が行くところは危険にならないから大丈夫」、それは本当だろうか?
「私は海外なんて行かないから」「僕は山なんて登らないから」「人ごみに行かないから」「目立つことなんてしないから」「ずっと自粛しているから」「私は何もしないから、大丈夫」、それで良いのだろうか?
「とりあえず何もしないでおこう、なるべく『人と違うこと』をやらないようにしよう、という社会になると、信念をもって行動しようとしても、行動の結果で得られるものに目を向けるより、マイナスの結果を作らない方が大事、という価値観になっていく」と安田さんは危惧する。
移動しないで見えるものも、もちろんある。だが今は、何をしたいか、何を見たいか、何を知りたいかが、強く移動と結びつく時代だ。移動することで見えるものは大きく広がる。
「人間は、一人ではすべてのことは経験できない。多くの人がさまざまな形の経験をすることで、自分の知らないことが幅広くカバーされていきます」
「誰かが制限したら、制限したものしか見られなくなる。『誰も見たことのないもの』『誰も知らないもの』は、経験できなくなってしまう。誰も知らないから新しいわけで、誰かに言われたらすでに新しいものではないんです」
あいまいな「迷惑」に忖度し、「何もしない」社会は、「新しい経験」をなくし、行動する人の気持ちを少しずつ蝕んでいくのではないだろうか。
移動は経験を増やし、経験は他者理解を促す
「移動の自由が重要なのは、移動は経験の機会を増やすからです」安田さんはいう。
「ものごとを経験するにはその都度、自分でものを考え、選択し、決断することが必要です。その経験が多ければ多いほど、他者を理解しやすくなる。いろんな場面を知って、自分とは違う選択肢もあったかもしれないと分かると、自分とは全然違う選択をした人のことも理解しやすくなります」
「そして一方で、理解できないものもあるということも、分かるようになる。理解できなくても、そういう『理解できないこと』が起こり得るということを、理解できるようになる」
他人を理解することは、あるいは「理解できないものの存在」を理解することは、自分を理解し、自分のアイデンティティを作ることにもつながる。
「人が『自分はこういう人間だ』ということを説明するとき、本来なら、自分が生きてきた人生で説明する。こういうことをやってきたとか、こういう経験があるとか、こういうことを考えてきたとか」安田さんは言葉を急がずに話す。
「ところが、人を理解することをやめ、自分で人生を選ぶことや、自分で経験することをやめていくと、自分で説明できるアイデンティティがなくなっていき、国籍や民族といった自分の意思で選んだものではないところに、アイデンティティを求めるようになっていく」
「ほかの人と自分がいかに違うかという点にアイデンティティを求めると、排除によって自分が何者かを実感するようになりやすい。これが続くとどこかで衝突する」
社会は属性によって維持されているわけではない
「2012年にシリアに行ったとき」、安田さんは言葉を継ぐ、「シリアの人たちは自治組織を作り、彼らなりに社会の秩序を維持しようとしていました」
「戦争は瞬間的に起こるものではなくて、続くものです。そこには人々が暮らし、人々がどうやれば生きていけるかを考えて社会の仕組みを作っている。戦争って、人の愚かさや残酷さの象徴だけど、人間の可能性や強さが見えることもある」
「紛争下のシリアでは、社会は与えられたものではなく、自分たちで作っていくものだった。社会は属性によって維持されているわけではないと、そのときに分かったんです」
「秩序が脆弱だったり、当たり前の秩序がなかったりする場所は、世界中にある。そこで社会がどう作られているのかを知ることは、私たちにとっても意味があります」
「日本には秩序はもともとあると思っている人が多いけれど、日本でだって、ルールは与えられたものではなく、作ってきたものです。今あるルールはもともとの目的に合っているのか、何のためにあるのか、共通の倫理や道徳はどこから来ているか。こうしたことを見直すためにも、いろいろな立場の日本人が世界の現場に赴くことは良い機会になるはずです」
「紛争地を知ることは日本を知ることでもある」と安田さんは言う。「日本人が行って、日本人が聞かないと分からないことがたくさんあります」
私たちの見る世界
「日本が70年以上戦場になっていないのはいいことです。でも、戦争を経験した日本人が少なくなった今、戦争の現場で起こり得ることの前提知識がなくなった」
「日本では経験しないで済んでいるけど、今も世界中で戦争は起こっています。戦場だけでなく、その周りには難民の人たちもいる。こうした現場にいる人たちのことは、ネットでは分からない。直接行って、目の前の人と実際に話す経験をして、分かることがある」
「『遠い場所』って、物理的な距離というより心理的な遠さによるもので、」安田さんはいう、「その心理的な遠さを越える手段のひとつが移動なんです」
私たちの見る世界は、移動できる距離に比例して膨らみ、心理的距離とともに収縮する。安田さんの話すシリアを近くに感じるのはそのせいだろう。
「一人でも多くの人が自由な状態にあって、やりたいことや好きなことをやって、その結果として、誰も知らないことを見る人が現れてくる。そういう社会を作るためにも、心理的距離を越える『移動の自由』はある」安田さんは強くいう。
安田さんの話を聞いてからすぐ、私はパスポートを持って日本を出た。それからすこしして、世界が「遠い場所」の断片へとほどけていくのを目の当たりにしている。
行けない場所が増え、直接に見られないものが増えた。最近私たちが見る「外国」は、新たな感染者数や死者数、入国制限や対ウイルス政策のリストの中にばかり強調されている。
そこで日常を送る人の姿は、か細く伝わってくるだけだ。日本国外にいる人間には、日本さえも遠くなってしまったように思う。それがとても心細い。
閉じた世界で「移動できないこと」にじょじょに慣れていく中で、「人が自由に行き来できる世界」のかたちを、努めて忘れないようにしている。
その世界がどれほど大きく豊かであったかを記憶の中に反芻しながら、「自由は空気みたいなもので、奪われないと分からない」といった安田さんの言葉を考える。
移動できる世界が戻ってきたときに私たちは、「移動の自由」がどれほど大切であったかを、忘れないでいられるだろうか。この訴訟のゆくえに、次の世界の大きさが見える気がしている。
(2021年10月08日) CALL4より転載