弱い立場の人への「やりすぎ」な制圧
さらにアルジュンさんが不安定な地位におかれた外国人だったという背景もある。
「日本人に対しても同じような過剰な制圧がなされている可能性もありますが、この事件は、社会的に弱い立場にあった外国人に対して起きました」と川上弁護士は言葉を選ぶ。
「警察の過剰な制圧が外国人への偏見によるものではないかというのは簡単だけど、それも偏見かもしれない」
「先ほどの動画から客観的に分かるのは、言語の壁によるフラストレーションも手伝って捜査機関の側が逆上し、明らかに『やりすぎ』な制圧をする様子です。差別や偏見というよりも、コミュニケーションがないまま冷静になることなく、『反抗的だ』と歪曲した解釈をしてヘッドロックに至っているように見える」
「こうした制圧行為は日本人に対しても起こっているかもしれませんが、言葉ができる分、誤解によって発生する確率は低いでしょう。捜査機関で異言語・異文化コミュニケーションの研修がきちんとされていたら話は違ったのかもしれません」
外国人の労働問題に多く取り組む川上弁護士は説明する。
「日本社会における外国人の社会的立場は弱いものになりがちです。言葉や社会制度、法律も分からないし、家族や親族といった人的つながりもない。ちょっと何か困ったことが起こると、すぐに社会的なケアが届かない谷間に落ち込んでしまう。それに対して声をあげるのも簡単ではない」
アルジュンさんが亡くなったとき、ネパールにいた遺族のアンビカさんはすぐに遺体を受け取ることもできなかった。「せめてお葬式を出してあげたい」という在日ネパール人らの思いから支援の輪が広がったが、遺体を引き取るには死後40日、葬儀には2カ月半を要した。
来日したアンビカさんの言葉は、「どうしてアルジュンは死んでしまったのだろう」だったという。
「留置中に人が亡くなっている、それは事実です。でも警察は、人が亡くなっているというのに顧みようともしなかった。支援者たちの助けを経て提訴できたときには、亡くなってから1年4カ月が経っていました」川上弁護士は振り返る。
「誰も追及しないままだと、警察の意識も変わらない。アルジュンさんが筋挫滅症候群で亡くなったという医師の所見が出たときには、私たちも提訴を決意していました。何もしないという選択肢はなかった」
国内の人権問題に目を向ける
傍らで、小川弁護士も、「社会的に不安定な立場にいる日本の外国人を支援することは、私たちのためにも重要」と声を合わせる。
「彼らを切り捨てると、日本全体の人権基準を下げ、それは社会全体にはね返ってきます」
「アルジュンさんの事件を『不幸なネパール人に起こった事件』と見てほしくない。外国人だったり、女性だったり、マイノリティだったり、何らかの理由で社会的に弱い立場に置かれたときに、誰にでも起こる事件、自分にも起こり得る事件だと考えてほしい。実際に自分の番になったときにはもう遅いんです」
もともとスーダンやカンボジアをはじめとした海外の人権問題に関わっていた小川弁護士は、「日本で難民申請中のコンゴ人に出会ったのをきっかけに、日本に住む外国人の問題、難民や入管の問題にも取り組むようになった」という。
「彼らは海外で人権を侵害されたせいで、日本に逃げてきて難民申請をしている。国内の海外問題と海外の人権問題は、根っこの部分でつながっている。両方に取り組む必要があります」
「海外の人権問題に取り組み、国際的な人権保障の水準が高められれば、それが反射的に日本の人権状況を改善することもある。たとえば国内で何らかの人権が侵害されている状態を改善するために、国連など海外の人権機関からの勧告といった外からの働きかけが有効な場合もありますから」
海外/国内という壁、外国人/日本人という壁を取り外し、ボーダーレスに人権問題を考えなければならないと小川弁護士は言う。
「これまでの人類の歴史を踏まえて、人権を守るために、国際人権法などの国際的な基準があります。私たちはその基準や価値観を、国連や外国が外から言っているものとしてではなく、『自分たち人類に普遍的なものとして必要』と考えるべきです」
「外国人であってもマイノリティであっても社会的弱者であっても、自分らしく自由に暮らせる社会を作るには何が必要か。それは、私たち自身が、海外の人権問題にも、国内の人権問題にも、外国人の人権問題にも、マイノリティの人権問題にも、社会的弱者の人権問題にも、ボーダレスに自分たちの問題だと考えて、取り組んでいくことだと思うんです」
みんなが生きやすい社会を作るためには
「そのためには、メディアで良質な議論が形成されることも大切です」というのは川上弁護士。
「さまざまな局面で、ネガティブキャンペーンや足を引っ張るだけの言論があるかもしれない。でもそれに負けずに中身を伴う議論を続けることで、ネガティブキャンペーンや誹謗中傷に対する注目は自然と減り、本質に目を向けることができるようになるのではないかと思うんです」
川上弁護士は、日経新聞の『韓国語を勉強する10代が増えている』という記事を例に挙げる。
「なんの根拠もない『嫌韓ムード』は今の社会のマジョリティではないと、分からせてくれる記事でした。こうした記事の積み重ねで、本質の議論に目を向ける人が増えていくのだと思う」
「ネガティブな言論は常にあると思うけれど、みんながより生きやすい社会になるには何が必要か、私たちもどこかで分かっているところもあるんですよね」
「ひとつのキーワードは寛容性。外国人をはじめとしたマイノリティに寛容な社会は、自分も生きやすい社会だということです」
「私も海外での経験が長く、外国人としていろいろな人に助けられてきたから分かる。みんなが生きやすい社会になるためには何が必要かを私たち一人一人がきちんと考え、丁寧に発言していくことが大事なんだと思います」
取材が終わって少しして、この事件のサイトが公開されたころ。「アルジュンさんの裁判を支援する会」を通じてメッセージを受け取った。ネパールにいるアンビカさんからだった。
「今もなお、アルジュンと私のために、真実を明らかにしようと日本の皆さんが取り組んで下さっていることを知って、その結果にかかわらず、嬉しく、幸せだと感じており、それが今の私の支えにもなっています」
アンビカさんは早口のネパール語で支援者のひとりにこう語ってくれたという。アルジュンさんが亡くなってもうすぐ3年が経つ。この訴訟はたしかにアルジュンさんとアンビカさんの訴訟だけれど、でもきっとこの訴訟はもう、二人のためだけの訴訟ではないのだ。社会に生きやすさを求める、すべての人たちのための訴訟なのだ。
(2021年07月16日) CALL4より転載