ある夕方のことだ。在留資格「技能」で来日していたネパール人のアルジュンさんは、拾った他人名義のクレジットカードを所持していたことで逮捕され、警察署に連れていかれた。
それから2日後の朝、警察署から検察庁へ移されたアルジュンさんはとつぜん意識不明の重体となり、死亡する。
2日の間に警察署と検察庁で何があったのか。アルジュンさんの身に起こったことをめぐり、遺族のアンビカさんが国(検察官)と東京都(警察官)を訴えている。
目を背けてしまいたくなる密室の動画
事件を担当するのは、川上資人弁護士と小川隆太郎弁護士。取材のはじめに、川上弁護士は警察署を撮った動画を再生して見せてくれた。
廊下が映し出されている。アルジュンさんが死亡する日の朝の動画だ。動画というツールを通すと、密室での空気感が痛いほど伝わってくる。ちょっと目を背けてしまいたいくらいに。
朝6時半。
廊下に面した留置所の房から出てきたアルジュンさんが、警察官の指示を理解せずに歩き出すところから動画は始まる。
歩こうとするアルジュンさんをすぐさま一人の警察官が制止する。アルジュンさんは理解できずに弱々しい声で何事かつぶやく。対してその警察官は「オラてめーこら、馬鹿にしてるだろう、オラ、このやろう」と怒鳴り、ほかの警察官とともにヘッドロックをかけてアルジュンさんを引き倒し、「保護室」に連れていく。
(起床時に布団の片づけをめぐって留置係員が注意をしたと記録にある)
(のちに通訳が、そのときアルジュンさんがかすかに発したネパール語を聞き取ると、最上級敬語で「私を家に帰してください旦那様」という意味合いのことを言っていたという)
天井から「保護室」を映す映像が続く。房の中では、たくさんの警察官がアルジュンさんに馬乗りになっている。数えてみると15〜16人。警察官の背中だけがカメラに映り、アルジュンさんの身体はもう一部しか見えない。
次の映像では、すでにアルジュンさんは手首、ひざ、足首の3ヶ所を拘束されていた。拘束のために使われた戒具(かいぐ)はナイロン製の布手錠と捕縄(ほじょう)、ロープ。苦痛でうめくアルジュンさんと、そのたびにしばり直す警察官の姿が映る。その後2時間にわたり、この状態でアルジュンさんは放置されることになる。
亡くなるまでの記録
保護房を出た後の動画はない。
記録によると、9時を回ったころアルジュンさんは、ひざ・足首の戒具をつけられたまま、両手首の戒具を護送用の手錠につけかえられ、検察庁に送られた。
午前11時前、検察庁で検察官の取り調べが始まる。取り調べ中、検察官はアルジュンさんの片手の手錠を外した。すると「アルジュンさんは大きくのけぞり、揺り動かしても反応しなくなった」という。
そこで手首以外の戒具も解除して心肺蘇生措置をとったものの、搬送された病院でその日の午後2時47分、アルジュンさんは死亡が確認された。病院搬送時の写真には、手首をはじめとする四肢の皮膚が赤黒く変色したアルジュンさんが写っていた。
「技能」の在留資格で単身来日したアルジュンさんは、日本ではネパール料理屋で働いていた。途中ネパールへ戻り、2016年終わりに再来日。アンビカさんたちの招へいも考えていたという。逮捕されたのは年が明けた2017年3月で、その2日後に亡くなったときのアルジュンさんは39歳だった。ちょうど仕事を辞めて、次の仕事を探しているときだった。
どうして亡くなったのか
「アルジュンさんが亡くなったのは、まず逮捕中に警察で過剰な緊縛行為があったため、さらに緊縛の後に、警察官も検察官も適切な対応を取らなかったためです」と川上弁護士が話を始める。
「この事件を受けるにあたって、冷凍された遺体を見に行きました。もう亡くなってけっこう経っていたけれど、手首など、変色していた外傷部分は分かりました」
「筋挫滅(きんざめつ)症候群をご存じですか」と川上弁護士。
「身体の一部を過度に圧迫したときなどに、筋肉細胞が壊死する。その部分を急激にほどくと、壊れた細胞からカリウムなどの有害物質が流れ出て、血流に乗り、心臓に到達して死に至ります」
阪神淡路大震災の際にも被災者が落下物に挟まれたときに類似の症状が散見されたという。
「これは一定値(7mg程度)を超えた血中のカリウム値で発症するのですが、死亡確認前のアルジュンさんの血中カリウム値は8.2mgと異常な高さでした」
「つまりアルジュンさんは筋挫滅症候群が原因で死亡した。そう私たちは主張しています。国や都は、筋挫滅症候群自体は否定していないようですが、死亡したこととの因果関係はなく、拘束したことにも過失はないとして争っています」
「危険な戒具の使用ルールがない」という問題
「この事件では、拘束も問題ですし、拘束を適切なやり方で解除しなかったのも問題です」と小川弁護士が言葉を重ねる。
筋挫滅症候群を避けるためには、緊縛や圧迫があったときにそれを不用意に解くのではなく、専門医(多くは透析医)に相談して適切な処置を行うこととされている。医療機関でも、拘束のための戒具を使用する際は、間隔をもうけることが求められているという。
「しかし警察も検察も対応をしなかった。もっとも大きな問題は、布手錠などの戒具の具体的な使用方法が、捜査機関内部でルール化されていないということです」
「日本にも以前は革手錠があって、でもそれは禁止されました。布手錠は圧迫という意味では変わりないのですが、残りました。ところが布手錠を連続でどのくらい使用できるか、解除の方法は、注意すべき事項はといったことは、文書化すらされていない」
「完全に捜査機関の内部統制の不足です。まず使用の判断がルーズだし、戒具の使用方法にも問題がある。それにそもそも、今回アルジュンさんに布手錠を使用する必要があったのか。コミュニケーションを取るために通訳官を呼ぶなど、戒具を使用しないで済む対応もたくさんあったはずです」
「本来、こうした戒具の使用は、必要最低限にとどめるべきものなのです」
この事件のほかにも海外の人権に関する事件を多く担当する小川弁護士は、国連の定めたルールを紹介する。
すべての被拘禁者について身体の自由を拘束するときにどう処遇するべきかは、通称「ネルソン・マンデラ・ルールズ」と呼ばれる国際人権基準に定めがある。そこでは、拘束具の使用は、あくまで例外的な場合に、限定的な条件下でのみ認められるとされる。
「アルジュンさんの事件で警察は、戒具を安易に使用し、苦しそうなのに外さず、長時間つけたまま死に至らせた。日本の捜査機関の人権水準が、国際基準に照らして低いということが明らかになった事件でした」
(2021年07月16日) CALL4より転載