call4 stories

第8回

ブルデ恵さんと沖縄海岸国定公園訴訟を巡るストーリー

いつから海はみんなのものじゃなくなったのか?


12

ひとりでも声をあげる

 「私たちは移住者だし、しがらみの少ない仕事をしているので、声をあげることが比較的容易だった。それでもここまでくるのは大変だった」

 東京のIT企業で働いていたブルデさんが「当時3歳だった長男の子育てを自然の中でのびのびしたくて」、映像制作会社を営むフランス出身の夫クリストフさんと共に沖縄に移住したのは2012年のことだった。

 県内で就職したブルデさんだが、数年働くうちに、勤め先でハラスメントなどのトラブルに巻き込まれる。

 「様々な問題が起こる中で、後輩の女性社員が上司からの性被害に遭っていたということも分かった。泣き寝入りしていた彼女に代わって会社を糾弾すると、それが最後の一押しとなって懲戒解雇を言い渡されたんです」

 ブルデさんは懲戒解雇に対して、「訴訟をするほかにキャリアと名誉を回復する方法がない」と、初めての訴訟に踏み切る。

「自分の訴訟をしながら、後輩社員が訴訟を起こすサポートもした。彼女が人生を取り戻すにも訴訟という方法しかなかったから」

 ブルデさんの訴訟は実質勝訴で和解決着したが、ブルデさんはそのときに「訴訟は、自分を尊重してもらうために声をあげる、大事な方法だと学んだ」という。「それが今回の件にもつながっています」

とどまって価値を守ることの意味

 「でも、声をあげる方法はほかにもあると思っています」

 希望が丘地域の自治会会長でもあるブルデさんは、「安心してここに住みたいという、地域の人たちの気持ちをどうやって達成していくかを、自治会活動を通じて考えている最中です」という。

 地域の開発の問題に取り組む中で、2018年9月には村議会選挙にも出馬した。

 「自分自身が行政の側に行くことで、問題意識を知ってもらえるかもしれないと思った。結果は落選でしたが、選挙をきっかけにさまざまな相談や支援が来るようになりました。弱い立場で悩んでいる人たち、ひとり親家庭の人から相談が来たり、環境活動に取り組む人たちから応援の声が来たり……最近はいろいろな人から連絡が来ます」

 「今回の訴訟を起こすとき、嫌なら引っ越せばいいんじゃない? って、いろいろな人に言われました。でも、次の場所に行ってもまた同じ問題が起こるかもしれない。結局、問題が起こったときにどうやって自分たちの価値を守るかが大事で、それは場所を変えてもついてくる」

 「ここで守りたい価値はいろいろある。海、海岸、海とともにある私たち地域の暮らし。そして地域の暮らしが尊重されるということ。今回の訴訟も、『自分(たち)を尊重する』の延長なんです」

 「私はこの場所を出ていくのではなく、変える努力をしたい。そして、地域の人たちと一緒に、自分たちは何を守り、どういう生活を望むかを、考えていきたいと思っています」

国定公園の問題を身近に感じてほしい

 「希望もあります。私が訴訟を始めてから、西海岸にリゾート開発の認可は一件も下りていないんです。国定公園って、本来は『この自然は守られる』というお墨付きを国が与えた場所。今回の訴訟が、県にとっても立ち止まるきっかけになっているのかもしれない」

 一方で、問題となっているリゾートは2019年7月26日にオープンした。

 「訴訟になっていることもおかまいなし。悔しいですよね。この場所が争われていること自体も一般には知られていない」とブルデさん。

 「一般の人たちにとって、国定公園の問題は遠いんですよね。国定公園の訴訟は日本でもほとんど例がないらしいです。国定公園は全国に56か所もあるのに、守る組織もない」

 ブルデさんは訴訟と並行して、沖縄の西海岸を守る活動(west coast connection)を始めた。

 「私がこれから目指すのは、国定公園を守る取り組みは特別なことじゃないと知ってもらうこと。そして、奪われるがままだった地元の人たちが『自分たちの生きていく場所を守ってもいいんだ』と思えるようになってほしいんです」

本当はひとりではない

 その夜、ブルデさん一家や会社スタッフ、訴訟をサポートする人たちと一緒に、北谷のアメリカンビレッジでごはんを食べた。アメリカンビレッジに向かう道すがら、夜の闇は深く、空はペンキで塗りこめられたような濃い黒だった。私はそれが、天気のせいだけでないという気がした。海はまだ見ていない。

 「恵さんの前職の会社で性被害に遭ったのは私なんです」

 オフィスで沖縄の50年を語ってくれた女性とピザをシェアしていると、彼女は自分の体験を話してくれた。

 「被害に遭ってからずっと、地獄の日々でした。誰にも打ち明けられず、逃げることもできなかった。未来なんてなくて、ただ自分を殺しながら毎日、生きていました」

 「恵さんとクリストフさん夫婦が、当事者以外で初めて打ち明けた人、そして初めて私に『それはおかしいことだよ』と言ってくれた人でした。ふたりがいなかったら、私は今もずっと、あの地獄にいた……。訴訟を通じて立ち向かおうと思えるまで4年がかかりました」

 彼女の声はふるえていた。

 「今回、私も恵さんの訴訟を応援する中で、CALL4のサイトに行き当たりました。それで、取材を頼んでみたらどうかと恵さんに提案したんです」

 「おかしい」と声をあげるひとつの勇気が、次の勇気につながるのだと、すでにある変化が新たな変化を呼んでいるのだと、私はそのとき知った。彼女にとってブルデさん夫婦が最初の味方だったように、ブルデさんの今回の訴訟にも、すでに味方はいたのだ。

海で遊ぶブルデさんの子供たち

 海の記憶が僕の島の記憶

 ごはんを終えて外に出ると、夜の雨がぽつぽつと頬を打った。風はなかった。「南の風に緑葉の」とうたう『芭蕉布』が私の中にまた流れて、南風と緑葉の不在を感じさせた。芭蕉布は夏の季語らしいが、この夜に夏はなく、私は布についた「沖縄のにおい」もわからない。

 海から青が失われるのと同時に、民謡からはにおいが奪われていく。沖縄民謡がただ風景の不在を歌う未来も遠くないのかもしれない。

 ずっと昔、満点の星空がキラキラと夜光虫の泳ぐ海とつながっていたように、今ではこの夜の空ののっぺりとした黒が、変わっていく沖縄の海の中を映し出しているように思えた。サンゴがいなくなって、夜光虫がいない海、夜光虫を食べるキビナゴやミズンがいない海の中を。

 翌日、空港へ向かう道すがら、車の中ではブルデさんの子供たちがゲームをしている。私は隣に座った10歳の長男氏のスマホをのぞき込みながら、「ねえ、裁判をしてるママとサポートするパパをどう思う?」と聞いてみた。

 「誇りに思ってる」彼は即答した。それから「でもそのせいでふたりとも忙しくて、僕や弟といっしょに過ごす時間が減ってる」と付け加えた。「今年はまだ海にも泳ぎに行けてないんだよ」

 3歳で沖縄に越してきた長男氏は、自分には沖縄の記憶しかないという。彼の沖縄は、海と、空の中にある。「我した島沖縄(うちなー)」が、彼の大人になるころにもなくなっていないように。そんなことを思う。

(2021年06月18日) CALL4より転載

12

こちらの記事もおすすめ