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第6回

高橋敏明さんと鬼怒川大水害国家賠償訴訟のストーリー

アイキャッチ

目に見える爪痕、目に見えない爪痕

取材・文/原口侑子(Yuko Haraguchi)
撮影/神宮巨樹(Ooki Jingu)
編集/杜多真衣(Mai Toda)


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 「水害って、じわじわと被害が来るんです。家は応急で修理しても、壁の中にカビが生えていて、しばらくしてぜんそくになったりする。体を悪くする人は多かった」

 「赤羽さんの奥さんのように水害後ほどなくして亡くなった方もいれば、1年以上経って亡くなった方もいる。被害後の救援制度も不十分だったから、現状を悲観して、悲しい亡くなり方をした方もいます。被害として見えにくいけれど、3年経った今もまだ苦しい思いをしている」

 「関連死は認定では12人となっているけれども、本当はもっといる。苦しくて、関連死の申請すらできない人もいたのを私たちは知っています」

鬼怒川沿いで「鬼怒川大水害」を語ってくれた人びと

 2015年9月の「鬼怒川大水害」をめぐり、国家賠償を求める訴訟が起こされている。私たち取材陣に対して水害の説明をしてくれたのは、訴訟原告団の共同代表をつとめる片倉一美(かたくら・かずみ)さん、水害の被害者を支援する染谷修司(そめや・しゅうじ)さん。

 私たちは、片倉さんの案内で、水害によって奥さんを亡くした赤羽武義(あかばね・たけよし)さんの話を聞いた後、今度は一夜で花き園芸会社の資産を失った高橋敏明(たかはし・としあき)さんの話を聞きに行くことになっていた。高橋さんもまた、原告団の共同代表のひとりだ。

 見渡すかぎり、のどかな田園風景の中に住宅が連なり、川沿いには春を待つ菜の花が咲き始めている。私たちは鬼怒川をさかのぼりながら水害の跡を探したが、今はもう、3年前の爪痕は残っていないように見えた。途中、車を停めて当時の様子を教えてくれる片倉さん。

 「ここ一帯が、すべて水没しました」、「あの建物も」「この道路も」「あのガスタンクも」という説明にあらためて驚くも、目の前に広がるあまりに普通の光景に、私はまだ当時の状況をうまく想像できずにいた。

 途中、三坂の決壊した堤防跡は車も通れるほど広い堤防に石碑が建っていた。「こんなに大きな堤防を簡単に作れるんなら、なんであのときに簡単な補修もしてくれなかったのかな」と、傍らの片倉さんがつぶやく。

 「私たちが求めていたことは、危険な川岸や堤防のほころびを補修することで、そんなに大きなことではなかったのに」ピカピカの堤防の存在は、翻って水害の跡なのかもしれなかった。

 鬼怒川に掛かる豊水橋付近には江戸時代の豪商の蔵があり、鬼怒川が水運の要だったころの繁栄の跡が垣間見えた。川のもたらす功罪に日常的に向き合ってきた若宮戸の自然堤防地域の言い伝えには、「川辺の草一本、砂ひとつ、持ち出してはいけない」というものもあった。「自然の草木や砂山が水を食い止めてくれていたから」だという。

若宮戸で被害に遭った高橋さん

 高橋さんの住むのはこの水害の始まりの場所であった若宮戸(わかみやど)地区。私たちは高橋さんの花き園芸会社の事務所で、水害の話を聞き始めた。

 「私の父の代は水稲を中心とした一般農家だったのですが、私の代になってから、実家の田畑を活用して花き栽培を始めました。農家の長男坊として考えるところもあったのですが、同じように農家の長男で実家を継いだ幼なじみと悩みを相談しあったりして決めた。これからは花が必要とされる時代がやってくると思って」

 「始めたのは、45年前、20歳のとき。最初は300坪くらい、3棟から。簡単な鉄骨のビニールハウスでした」

 3棟の温室からスタートした高橋さんだが、徐々に施設を充実させていった。途中、法人化を経て、花の生産だけでなく販売や加工も始め、温室の数は16棟になった。

 「わりあい順調に来たほうじゃないかなとは私なりには思ってます。後継者も育った。長女が跡を継ぐことを決めてくれて、次女・三女も手伝ってくれてます。ずっと一緒にやってきた社員が10人いるし、新入社員もとり始めた。経営も軌道に乗ってきたな、というときでした。あの水害が起こったのは」

(2021年05月28日) CALL4より転載

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