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第5回

赤羽武義さんと鬼怒川大水害国家賠償訴訟のストーリー

「母さんよ、これが最後の仕事かな」喪失の中で決めた事


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喪失

 芳子さんは、震災関連死と認定された。

 「それからは毎日気が晴れず、もんもんとした気持ちで過ごしてた。早く楽になりたい、そうしたらこの気持ちもとれるかなーって、薬を大量に飲んだら楽になるかなって」

 「女房にも頼むわけよ、『なあ母さんよ、おれはもう疲れちゃったよ』って。『おれのこと迎えに来るように、栃木のばあちゃんにも言ってくれよ』って。死っていうものを自分で思い込んでた。でもやっぱり、それで子供や孫たちに迷惑かけたら後々困るだろうと思って思いとどまるわけ」

 「5月ごろかな、かかりつけの先生に紹介されて病院に行った。私はうつ病にかかっていた」

 それから2年間、赤羽さんは心療内科に通った。

 「あのころは、早く楽になりたいとばかり思って頭おかしくなってた。被害者の会に行っても私、いいこと言わなかったでしょ?」

 赤羽さんが振り返るのを、片倉さんと染谷さんが見守っている。

「母さんよ、これがおれの最後の仕事かな」

 「あれから3年、被害者の会でみなさんの話を聞く中で、あの水害は天災ではなく人災じゃないのか、という感覚が、強く心に残った。あの災害は防げたと、いろいろと調べるうちにわかってきた」

 「なぜ女房は死ななければならなかったのか。女房の死の原因はどこにあるのかを、はっきりしたい。それが私の最後の仕事なのではないか、と思うようになった。どうしてこうなったのかを、責任ある方から説明してもらいたい、と。女房にも、『母さん、みんなと一緒にやってみる』と言いました」

 赤羽さん、片倉さんをはじめとした29人は、水害から3年が経つ2018年8月7日、国を相手取って、水害で受けた被害について国家賠償を求める「鬼怒川大水害国家賠償訴訟」を起こした。

 訴訟原告団の共同代表になった片倉さんは説明する。

 「鬼怒川沿岸の堤防は、水害の起こる前、きちんと整備されておらず、危険な状態にあった。実は住民は以前からそれを指摘して、川を管理する国土交通省にたびたび対応を求めていた。しかし国交省はきちんとした対策を取らずに放置していた。結局、住民が危惧していたとおり被害が発生し、その後の対応のまずさもあって、被害が拡大してしまった」

 水害直後からサポートセンターを通じて支援を行ってきた染谷さんもいう。「こうした対応のまずさを訴えたくても、水害直後は生活を立て直すのに精いっぱい。みんな疲れ切って、苦しくて、立ち上がることができなかった。ようやく生活が戻ってきて、訴訟を起こすまで、3年がかかったんです」

片倉さん宅(水海道)から見た当時の様子

寄り添い、声を上げる

 「あの水さえなけりゃあなあ。今でも思うよ。昨日もさ、街に行ったら、高齢者がふたりで買い物してるわけよ。ああいうのみるとね、あーいいなあってね。今でもね」

 「毎日、朝は仏壇にお願いするの。『子どもたちや孫たちのこと、見守ってくろー』って。夜はお礼。『今日も一日ありがとう』って。で、『じゃあ、寝っかんなー』って寝る。左目が不自由だった女房のために、仏壇の電気は昼間もつけてあげてるの」

 仏壇の前に座る赤羽さんの一日は今も、芳子さんの支えの中で動いている。

 ただ、喪失の中にいた赤羽さんの傍らに、今は片倉さんや染谷さんがいる。「住所を聞いたのも最近だけどね」と笑いながら、三人は、そのまわりの人々も含め、この3年間を寄り添い、支えあって少しずつ日常を取り戻してきたのだとわかる。

 午後の3時を過ぎて表に出ると、日が傾き始めた空に風がいっそう強く吹きすさび、目も開けていられなかった。まぶたの裏で、私はこの住宅街をすべて飲み込んだ大水のことを想像した。黒い夜、黒い泥水、汚水のにおい。空から落ちてくるヘリの音。

 目を開けると今の水海道にあるのは、決壊地点と書かれた地図をぐるりとなぞる片倉さんの鉛筆と、「ここすべて、水没です。ここもです。ここもです」という説明。「あのときに」と今でも自分を責める赤羽さんの痛切な顔つき。できたばかりの、広大でピカピカの堤防。

 私たちは赤羽さんに別れを告げると、車を北に走らせ、若宮戸と呼ばれる地区へと向かった。そこは最初に水があふれた場所で、私たちは9月10日にかかわるさらなる話を聞くことになる。

(2021年05月14日) CALL4より転載

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