事件の風土記《5》

【狭山事件】不正義に人生を曲げられた人

狭山事件 その2

毛利甚八


  • 事件発生から40年後の春。ベッドタウンとなる前の武蔵野の農家のたたずまいを残した一画。狭山市駅から犯行現場に向かって、石川一雄さんが歩いたとされる道からの眺め。

 そこは月島や佃島といった下町の路地の奥を思わせた。窓の外に植木が並び、春風に風鈴が鳴った。籠の中の鳥が機嫌よくさえずっている。

 石川一雄さんが「あんちゃん」と呼ぶ兄・石川六造さんはちゃぶ台の前で立て膝を抱いて座っていた。

 「弟があんなことになんなけりゃ、俺が親父に迷惑をかけてたんだ。ほんとに。16の時に家を飛び出しちゃって……。だからいまだに感謝して、俺は(現在の家に)仏壇持ってきたんだろ。感謝してるよ、ほんとに。で、こないだ新ジャガもらったから、すぐ茹でて供えたよ親父に。あれ、ジャガイモ親父好きだったから。死んでからそんなことしても遅いんだけれどな、だけんど俺の気持ちだ」。

 伝法な下町言葉を機関銃のような早口で使った。

 昭和38年の5月、石川一雄さんが逮捕された時、六造さんは鳶として6人家族を養う大黒柱であった。狭山市周辺はベッドタウンとして開発が始まっており、住宅建設の仕事はいくらでもあった。工事を請け負い、数人を指揮して基礎工事を手がける。弟の一雄さんもまた、部下の一人であった。

 父・富造は五反足らずの農地を耕す暮らしであったから、弟が殺人犯として逮捕・起訴されたことは、そのまま家族の生活が経済的危機に直面することであった。

 「今は(訴訟の支援を)部落解放同盟がやってくれてんからいいけど。最初はね、市会議員の紹介で、藁にもすがるような気持で弁護士さんをお願いしたんです。すると5日おきに5万円用意してくれって言われたこともあって、泣き入っちゃったねぇ。親戚中あちこちから5万、10万と借りてね。だから頭が上がんなかったよ。裁判に行く時には金なんてないから、オニギリ作ってさ、持って行ったんだよ。ある時、俺の仲間がね金を集めて持ってきてくれた。弟の事件があってから、鳶仲間だとか商店街の人とかから連絡があって、お前には言わなかったけど実は同じ部落だと言うんだ。紙袋に入った当時の金で54万円、それを見て震えちゃった。あれでひと息ついたんだ」。

 部落解放同盟が組織的な支援を明らかにした1969年以降、家族の経済的危機は去った。同年、石川一雄さんの両親である富造・リイ夫妻は部落解放同盟第24回全国大会に参加し、わが子の無実を訴える。老いた両親は差別闘争のシンボル的存在として活動に参加し、1977年に最高裁で上告が棄却され、無期懲役が確定した2年後の1979年には20日間にわたって全国を歩いている。それを支えたのもまた六造さんとその妻であった。

 「こんなことを言ってると過去のことを思い出してね。昔の映画とか写真とか見たくないんですよ。(逮捕前に)弟がスコップ持ってる写真があんでしょう。あれは俺が家の換気口を作るためにモルタルを練れ、と言った時の写真なんだ」。

 警察のリークによって被疑者だと知った通信社のカメラマンが工事現場にやってきた。石川一雄さんは、カメラを向けられることが嬉しくてたまらなかったという。ランニング姿の太い腕を持つ青年は、その後の時間の重さを知らないまま満面の笑みを浮かべて、今も印画紙に定着している。

 弟が出てくればなんとかなる。そう信じて夢中で生きた歳月が過ぎた。85年には父が、87年には母が、相次いで他界した。

 六造夫妻もまた老いた。いま思えば、自分たちのために蓄えを残すべきだった。しかし、それもまた肉親の逮捕と長い裁判闘争という暴風が過ぎ去ってはじめてわかることである。

 現地調査の一団を追うようにして、春の狭山市を歩いた。40年前の田園地帯を彷彿とさせる畑地や森もあるかと思えば、茶畑の向こうにパステルカラーに彩られたショートケーキのような住宅がちぐはぐに並ぶのも見た。かつて差別で線引きされた土地も膨張した市街地に埋められて曖昧にぼやけている。

 かつてあった不正義を憎む気持ちはあっても、私は跨がるべき正義の馬を持たない。せめて不正義に人生を曲げられた人のひっそりとした老いの傍らに立ってみる。

 その悲しみを朽ちることのない石のような言葉にして刻みたい、と念じては諦め、忘れまいと思っては自分を疑う。そのようにして、言葉に熟さない思いを烙印した。

(季刊刑事弁護32号〔2002年10月刊行〕収録)

(2020年01月17日公開)


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