特急電車の中であれこれ悩むうち、その町に着いた。
駅を降りても人の暮らしが香りたつ場所ではない。煙突とそこから吐きだされる煙がやけに目につく、平たい河口の町。整然とした区画と大きな道路は、この土地が企業城下町として生まれ育ってきたことを物語っている。
元死刑囚の暮らす、この町の名を書いてよいものかどうか?
私はそれを考え続けていた。そもそも、自分のような役に立たない人間が、冤罪という痛烈な傷痕に触れてよいものだろうか?
どう考えてもわからない。
その人は自転車に乗って待ち合わせたホテルにやってきた。矍鑠(かくしゃく)として、憮然とした表情で、元気だった。すでに人吉を歩いたことを話すと、自分の話を聞く前に勝手に人吉を歩いても無駄だ、と言った。
自分の冤罪には、もっと大きな背景がある。殺人事件の犯人に仕立て上げられたのは、ある重大な警察官の秘密を知ったためなのだ。それを知らずに供述調書に沿って歩いても、何の意味も見出すことはできない、と憤った。
「しかし、それは証拠がなければ書けません。証拠もないままにそれを書いて、警察と泥仕合をする勇気のある人はいないでしょう」。
私はそう言い訳をした。
叱られながら、ホッとしていた。34年と半年の間、不合理な証拠によって獄につながれた免田栄が、目の前で怒っている。生命と魂が燃え続けている。憤然としたなかに、そばにいて暖められるような力が含まれているのが、ありがたかった。
1952(昭和27)年、彼は拘置所の中で旧約聖書の言葉に出会った。名も知らぬ支援者が配ったビラに記された詩篇の一節だった。
「たとえ死の影の谷を歩むともわざわいを恐れません。 あなた(神様)が私とともにおられるからです」(詩篇 第23篇 ダビデの詩より)
その言葉に出会う瞬間まで、冤罪の不条理に痛めつけられた心は行方知れずのままであった。日夜、手が震えていた。文字を書くことさえままならなかった。
跪(つまづ)き、覚えたばかりの聖書の言葉を唱えた。5日の間、食事に手をつけることも、眠ることもせずに唱えた。正気にしようというのか刑務官が彼を突き飛ばした。それでも、唱えることを止めなかった。
「素晴らしい5日間でした」。
立ち直った彼は再審請求に取り組んでいく。
とはいえ、拘置所の朝は毎日が地獄である。
死刑執行の朝、刑務官たちは廊下の両側から靴音を響かせてやってくる。白手袋に式服を着込み、執行される受刑者の部屋を取り囲む。日頃、軽口を交わす時の笑顔が消え、眼光鋭く青ざめた顔の刑務官がドアの前を通り過ぎれば他の誰かが死ぬ。
今度こそ自分ではないか。それは今日ではないか。午前のその時刻が過ぎるまで、毎朝、恐怖が襲ってきた。
忘れるために点訳に精を出した。童話や絵本を中心に1500冊の本を、拘置所の中で作り上げた。罪が晴れたのは広辞苑の小冊を3分の1ほど点訳した頃のことである。
熊本地裁八代支部において無罪判決を受けたのは1983(昭和58)年、23歳で逮捕された青年はすでに57歳であった。人が社会人として人生を築いていく時間のほぼすべてを、拘置所で過ごした後のことである。
「おめでとう免田君、君ひとりの血を浴びずに済んだな」。
そう刑務官が言った。
無罪判決の出た夜、八代のホテルに泊まった。部屋の窓からふと市街を見下ろしてみると、青年の頃に眺めた藁屋根の町並みは、すべて色瓦に変わっていた。比喩ではなく、浦島太郎そのものであった。失ってしまった時代のうつろう感覚や世相の記憶は、いくら聞いても架空の物語のようで、今も取り戻すことはできない。
無罪判決後、知りあった女性と結婚して、この河口の町へやってきた。市役所のホールで結婚式を挙げてみると、500人の客がやってきて免田を驚かせた。旧財閥系の炭鉱で労働運動を繰り広げている人たちの仲間意識にはからずも包まれたことは、彼にとって幸運であったように見える。
郷里に帰ることは滅多にない。河口の町で、彼は有名人であり、さして窮屈さも感じていない。
「町の名を書きたければ、あなたの好きにすればいい」と、76歳になった彼は言った。
(季刊刑事弁護30号〔2002年4月刊〕収録)
【補遺】免田栄さんは、今年93歳を迎えた。再審無罪になってから36年目になる。獄中生活は34年であったので、それを2年も越えた。地元の熊本日日新聞は、1983年7月15日の無罪判決の2カ月後から、自身の反省も込めて「検証 免田事件」の連載を開始した。連載終了後も、節目節目で、免田さんの近況と免田事件で残された課題について報道してきている。それらを集大成して、『完全版 検証・免田事件』(熊本日日新聞社編、現代人文社、2018年)が刊行されている。なぜ冤罪は起こったのか、無罪判決までなぜ34年間もかかったのか。その原因や社会的背景、免田事件が日本社会につきつけた課題などを明らかにする。(成澤)
(2018年11月15日公開)