朝、ホテルの窓から空を見た。8時をとうに回っているのに陽の光はない。カメラを使う人間には恨めしい鉛色の空である。
「今日は晴れそうもありませんね」。
私が言うと、食堂のおばちゃんは「いいえ」と笑った。「11時頃には晴れますよ」。
気休めと受け取って外に出た。だが古い地図をみつめながら人吉周辺を車で走るうち、予言どおりに空は晴れ渡った。霧が溜まりやすく、朝が遅いのだ。
昭和23年の暮れ、この山上の盆地で殺人事件が起こった。12月29日の深夜、祈祷師一家が襲われ、夫婦は絶命、2人の娘が大怪我を負った。未解決のまま事件は年を越した。新刑事訴訟法が発効したその元旦から13日が過ぎて、警察は23歳の男を窃盗容疑で逮捕した。
それが免田事件のはじまりだった。被告人・免田栄は昭和58年7月の再審無罪判決までの約35年にわたって、殺人者そして死刑囚とされたのである。
私は事件の風景を眺めるためにここに来た。走行距離92,000kmの小さな四輪駆動車で大分からあえぎあえぎ峠を越え、阿蘇を経由して2日がかりでたどり着いた。球磨川の河口に水中から突き出た大木があって、川鵜がびっしりと止まっている。和船を操る川漁師も見える。狭隘な谷間をのぼりつめていくと、ふいに目の前の景色が軽くなって、人吉市があった。
人吉でもっとも古いバーを捜して飲みに行った。高度成長期には50人を収容できるカウンターバーを切り盛りしていたという女性が、息子と2人で店を守っていた。
彼女は終戦の年、小学生であった。父は兵役にとられたまま帰ってこない。母が白福という祈祷師におうかがいを立てると、昭和23年に帰ってくるという神託があった。はたして父は帰ってきた。子ども心に予言が当たったのが驚きだった。直後に祈祷師が殺されたので、なおさら記憶に焼き付いた。
その頃、農家でない人々は食料の調達に苦労していた。なによりも米と交換するためのモノがなければならない。なんでもない子ども服ですら、油断をすると盗まれた。23歳の青年は玄米を盗んだ容疑で別件逮捕された。証拠はなく、人吉市内で派手に遊んだのを見咎められたのである。
供述調書のままに動いてみようと思った。それは事件を法的に処理するための公文書であると同時に、戦後まもない地方の警察署に奉職していた人々の意識と無意識の織りなす物語であるはずだ。
事件は暮れの12月29日に起こった。凶悪事件の発生に警官達はいろめきたったはずだ。しかし、年明けの1月5日まで、犯人の手がかりはなかったとされている。私がもし警官なら、ごく一般的な日本人の心性として恥の意識がうっすらと体を包んだと思う。「私」の無能力が恥ずかしいのではない。たまたま私の属する組織の前に、大きな事件が起きた。事件は個別であり、その解決は決して一様ではないはずだが、すんなりと処理がすすんだ例もある。うまく処理がすすんだ事例によって、組織全体の自意識がじりじりと炙られる。
これは警察ばかりの話ではなくて、私たちは個と組織の峻別を行うのが苦手である。厳格な言葉を使って、自らを全体から引き剥がすという苦痛を、民族的に体験していないのである。組織の焦りは私の焦りとなり、組織の苛立ちが私の苛立ちとなる。そうした悪感情は私から立ち上がったものでないだけに、いっそう人を盲目にする。
そんな時、刑事の名を騙って人吉の「接客婦」の母を訪ねた男がいる、との情報がもたらされる。捜査陣は情報の男に「怪しさ」を読み取り、一気に殺人犯であるという予断を持つ。
おもしろいのは、逮捕のきっかけになる「接客婦」こそが青年の無実のアリバイを証明する人物であることだ。あちこちで、かき集められた情報や証拠が逆さまに読まれていく。
アリバイを潰すために「接客婦」と一緒だった夜を翌日に設定する。翌日に設定すると、犯行の後に空白が生まれる。
青年から教えられて、逮捕の後に手に入れたナタやハッピを証拠とする。ナタやハッピが、殺人の証拠としてはきれい過ぎるために、それを隠したり、洗ったりする段取りが必要となった。
かくて犯行の後に、青年は深夜の盆地を生家に向かって歩き続け、凶器のナタを埋め、川でハッピを洗い、(翌日の朝に人吉市内でのアリバイがあるために)また線路伝いに人吉市内に戻るという奇妙な物語が生まれたのである。
(季刊刑事弁護29号〔2002年1月刊行〕収録)
(2018年11月15日公開)