ゴォという飛行機の音が旅情を伴って聞こえるのは、それが非日常の音だからだ。
昼下がりになると2、3分に一度、その金属音まじりの轟音が降ってきたら、どうだろう。それが日の暮れる午後7時まで、日常の中で絶え間なく続いたら。
子供たちは大声でしゃべりながら下校している。駅を通り過ぎる大人たちは空を見上げる。
飛行機の機体が、銀色の腹をきらめかせて飛んでいる。やけに近く感じる。700mという飛行高度はスカイツリーの高さとそう変わらず、人間の手の届く空だ。
まさか落ちるまいとは思うけれど、もしこれが、1日に数百万人が行き来する新宿に、渋谷に、品川に落ちたら。
2020年3月29日。都心を南北に貫いて川崎まで、地図に新しい「ベルト状の線」が描かれた。国土交通省のホームページで公表されたその新しい線は、東京国際空港(羽田空港)への離着陸の飛行ルートだ。
飛行ルートが変更になったことで、それまでは海の上を飛んでいた離着陸の飛行機が、都心の住宅地や川崎の石油コンビナート、一部荒川の上空を飛ぶようになった。
地図の上ではいく筋かの線が描かれただけだが、いつだって、地図に描かれるのは無機質な記号だけで、「地図の上から人間は確認できない」。
暮らしの平穏を奪う騒音
「すでに、かなり参っています」
地図の下にある人々の生活の変化は激しい。
「3時になると家の真上を飛び始めるから、じっとしていられなくなる。うるさくて、もう思考停止しちゃう」
新しい飛行ルートの直下に住む須永知男さんは言う。空に境界線はなくても、「人の住まない海の上空」を飛んでいたものが「人口の密集する都心の上空」を飛ぶというのは大きな変化だ。
黒田英彰さんも須永さんの近所、ルート直下に住んでいる。「私の家の近くの国交省測定局でも、飛行機が飛んでいるときは、79デシベルという『普通の声では会話が成立しない』値の音が、記録されたくらい。とにかく、うるさいです」と黒田さん。
「川崎ではもっとすさまじい音です。94デシベルという値が出た地区もある。これはもう、会話が不可能な値です」
94デシベルの音は鉄道のガード下と同じくらいの騒音だともいわれる。たしかに、ガード下を誰かと歩いても会話はできない。
「しかも、この測定値が出たのは冬です。夏になると、エンジンの出力を高めるため、より大きくなる」
もっと怖い被害も生じうる
「騒音よりももっと怖い被害も考えられます」と須永さんは言う。
「それは部品の落下や墜落などの事故です」
部品の落下は、飛行ルートが海上だった過去10年でも、24~25件発生している。
「2018年にも、エンジン部品が落下して、病院の窓に当たったことがあった。エンジン部品は900度から1,500度の高温になる。もしこれが、川崎の石油コンビナートの配管に当たったらどうなるか?」
「コンビナート火災を消火した実績は、日本はおろか世界にも見当たらない、と聞きます。コンビナートの燃料がなくなるまで燃え尽きるしかない。鎮火されるまでの間に、南風に乗った有毒ガスが、東京や首都圏に流されてくるかもしれません……」
もともと川崎石油コンビナートの上空には、危険性を考慮して1970年から飛行制限がかけられていた。それが今回、新ルートを設定するために、東京航空局長は羽田空港の空港長に対して飛行制限をなくすよう「通知」した。
川崎の石油コンビナート上空が安全になったというような新しい事情は明らかになっていない。
リスクは適切に想定され、検討されたのか?
「コンビナート上空で事故があった場合の被害想定を調べようと、川崎の防災計画を見たところ」黒田さんが話を続ける。
「被害の想定や対応策は見当たらないんです。細かい検討もない。さらに川崎には、臨界実験装置のある原子力技術研究所があって、飛行機はその至近も飛びます。実験の施設は廃止が決まったようですが、解体にはまだまだ時間がかかる。その間にもし部品が落下したり機体が墜落したりしたら……?」
「こうしたことも私たちはたびたび住民説明会で質問したんですが、すべてうやむやにされた。回答はいつも、『そういうことがあってはなりませんね』ばかり。
渋谷区では住民説明会は6回開かれましたが、1人1回しか質問もできないし、質疑応答は遮られるし、真摯な回答は一度もありませんでした」
安全違反で訴訟を提起
離陸時の3分と着陸時の8分は、事故が発生しやすくなるために航空業界で「クリティカル11ミニッツ」と言われ、映画「ハドソン川の奇跡」でも描かれている。新ルートが設定された後は、この11分が、それまでの海上飛行から、都心やコンビナート上空の飛行になる。
「2018年にも、羽田の手前8kmで、事故寸前の出来事があった。国際便のボーイング747が86mまで急降下したというものでした」
「ただでさえ危険なのに、新ルート開始後の運用では、冬場に羽田空港に着陸する飛行機は、通常の飛行角度(3度)を大きく上回る3.45度という角度で飛行することになっています」
航空法では、「航空機の離陸及び着陸の安全を確保した航行」をしなければならないと定められている(83条)。
「新ルート設定はこの規定を無視し、安全違反を引き起こすものです」
都心・川崎のルート下に住む住民たち29人は国に対し、航空法違反であると、ルートの取り消しを求めて訴訟を提起した。同時に、川崎の石油コンビナート上空を飛ぶことを許容した「通知」の取り消しを求めている。訴訟原告団の代表が須永さん、黒田さんが副代表だ。
「大きな」目的の下で地域が犠牲になる構造
こうした危険のある中で新ルートを開く目的は何か?
飛行ルートを管轄する国土交通省は、目的は「国際便増便とそれがもたらす経済効果」だと公表している。
増便による影響について「国際便の便数を年間3.9万回分増やすことで、6,503億円の経済効果、4.7万人の雇用増を見込む」と予測する。
そして、その目的を、「ビジネスを活性化させて首都圏の国際競争力を高めること」「外国人観光客を増やすこと」「日本の地方を元気にすること」、さらに「2020年のオリンピック・パラリンピック大会を円滑に開催すること」であると説明する。
「そこで、増便のためには、新しい滑走路以外にも新しいルートが必要である」と。
観光や国際競争力の強化、「オリンピック・パラリンピックの円滑な開催」。
こうした「大きな」目的のために、暮らしの平穏や安全が奪われ、「我慢を強いられている人たち」がいる。この構造自体は、実は今に始まったことではない。
闘争まで発展した成田空港や、騒音公害訴訟が起った伊丹空港など、空港や空路をめぐる住民と国との争いは長い歴史の中で繰り返されてきた。
そこには、「航空需要や国際競争力という国益」と「地域の暮らし」が対立する構造があり、「我慢を強いられた地域の人たち」が多くいた。
空港建設予定地になった土地を手放さなければならない人がいたし、夜間の離発着で騒音被害を受ける人がいた。我慢した人たちがいて、補償を受けた人がいて、受けられない人がいた。合意形成ができた場合も、できずに終わった場合もあった。
伊丹空港では訴訟を経た今でも、21時~7時までの離発着は認められていない。
(2021年12月17日) CALL4より転載