1982年4月2日、作家の青地晨、伊佐千尋各氏、弁護士の倉田哲治、後藤昌次郎各氏ら20数名で「陪審裁判を考える会」は発足した。写真はその会誌の創刊号である。それは、日本にも戦前にあり、戦争中に停止された陪審裁判の実現(復活)への決意を高らかに宣言するものである。刊行から38年を経て誌面は色あせているが、内容はいささかも古くない。創刊号には、倉田哲治(弁護士)、利谷信義(東京大学教授)、伊佐千尋(作家)、関原勇(弁護士)、庭山英雄(中京大学教授)、飯室勝彦(東京新聞記者)が投稿している。それぞれ、国民の司法参加制度である陪審裁判について、その意義と実現のための条件が語られている。
後に、同会には、裁判員制度の実質的な制度設計をした司法制度改革推進本部「裁判員制度・刑事検討会」の委員になった四宮啓弁護士が加わっている。「陪審裁判を考える会」は、現在も活動を続けている。
「陪審裁判を考える会」発足後、1982年12月、九州に「九州陪審裁判を考える会」、1986年12月、新潟に「新潟陪審友の会」、1990年2月、埼玉に「埼玉陪審フォーラム」がそれぞれできている。関西では、1995年、佐伯千仭先生が中心になって「陪審裁判を復活する会」が結成される。これらのグループは、陪審法案の作成など立法提言をするとともに、集会や学習会などを精力的にひらいて、陪審裁判の実現に向けて運動を展開した。
当時、「陪審裁判を考える会」内では、国民の司法参加の実現は遠い将来のことであるとの意見が大勢を占めていた。そこで、もっぱら、日本における戦前の陪審制度や諸外国における市民の司法参加制度の研究や紹介を主として行っていた。その活動は、他の会の活動と相まって、国民や弁護士会の中で司法の国民参加への意識を高めることに大いに貢献したものとして、高く評価できる。
ところが、大きな転機がやってくる。政府に司法制度改革審議会(1999年〜2001年)が発足したことである。そこでは、国民の司法参加について、本格的に検討が進められことになる。それは、最終的に裁判員制度へと実を結ぶことになる。
裁判員制度をめぐっては、評議に裁判官が関与するため、本当の国民の司法参加であるかどうか、グループ内外で激しく意見が闘わされた。その詳しいやりとりは、伊佐千尋著『陪審裁判は刑事裁判を変えるか──陪審裁判を求める理由(わけ)』(現代人文社、2006年)で知ることができる。とくに、同書収録の四宮啓弁護士と伊佐千尋氏との対談「裁判員制度は、陪審制度の一里塚になるか」に、その論点が整理されている。裁判員制度の現状を検討する際、現在でも参考になる。
裁判員制度が導入されて10年目が過ぎた。最高裁判所の「裁判員制度10年の総括報告書」(2019年5月)によれば、1万件超の裁判員裁判を実施し、経験者は約8万9000人に達している。同報告書は、「『(非常に)よい経験』と感じた経験者は一貫して95%を越え、制度施行を機に刑事裁判に対する国民の印象が大きく好転」と、「多くの国民に肯定的に受け止められてきた」と裁判員裁判を高く評価している。国民が単なるお飾りでなく本当に司法参加の実質を持つものになるか、また、国民の司法参加を担保する刑事手続が十分であるか、今後さらに制度の運用を検証していく必要である。
最後に、会のメンバーであったお二人(故人)を紹介しておく。
倉田哲治氏は、1926年生まれ。1998年逝去。弁護士として、免田事件、狭山事件など再審事件のほか、60・6・15安保反対運動南門事件、土田・日石・ピース缶事件、ロッキード事件などに弁護人として関わった(倉田哲治著『倉田辯弁護士事件簿』コスモヒルズ、1997年)に詳しい)。
伊佐千尋氏は、1929年生まれ。2018年逝去。米国施政権下の沖縄での陪審裁判の体験を描いた『逆転』で第9回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。最後まで、裁判員裁判は本当の国民の司法参加制度ではないとの自説を曲げなかった(季刊刑事弁護23号〔2000年〕に伊佐氏のインタビュー記事が収録されている)。
(2020年09月23日公開)