日比谷の野外音楽堂にたどり着くと、その古めかしいスタイルの闘争の、意外な賑わいに驚いた。差別を糾弾する文言のプリントされたゼッケンが人の背に張り付いて会場を黄色に染めている。人波にあちこちで旗が突き出している。風船が揺れる。激しい言葉の踊る横断幕。壇上には神妙な面持ちの国会議員数人と数十人の代理がいて、挨拶をすませると風のように消えていった。
狭山事件の主役・石川一雄さんは妻とともに壇上にあった。しかし、資料の写真しか見たことのなかった私は、彼が盛大な拍手を浴びて中央に進むまで気がつかなかった。裁判で争っていた頃の写真に比べて、あまりにも小柄で痩せていたからだ。刑務所の中で病を得て、食事制限をしているせいであった。
石川さんが力強い口調で演説をしたのにもびっくりした。その「ものいい」もまた国際的なサッカー大会で浮かれている世相に比べれば、いかにも浮世離れした古風なものであった。
そこに40年という時が流れている。
狭山事件の取材に先立って弁護団から段ボール箱いっぱいの資料が届いた。数冊の本、機関誌、写真集、ビデオ。そのいずれもが、はるか40年前に起こった冤罪事件の捜査の欠点、不思議な証拠品の数々、裁判官の事実認定のずさんさを指摘して倦むこともない。そのいちいちがもっともで、そうした疑問が放置されたまま刑が執行されてしまったことに頭がくらくらした。
強姦殺人の自白を引き出した関という警察官は被差別部落の野球チームにも審判を務めてくれた好漢だったと、今も石川一雄さんは言う。
2度の家宅捜索の後、魔法のように石川さんの自宅から発見された、被害者のものとされるピンクの万年筆があった。
「あれは関さんが置いたのではないと思います。関さんは親切な人でしたから」。
無期懲役を仮釈放になるまで務めた後に、再審請求闘争の主役になりながら、それを言う石川さんの善良さにまた、頭がくらくらした。
吉展ちゃん事件が世を騒がせた直後に、類似事件を処理しようと焦っている警察にとって、石川さんの善良さはまたとない獲物であったろう。自白すれば10年で出られるという警察の言葉「男の約束」を信じて、石川さんは一審の間、犯人であることを認め続ける。また、拘置所にいる間に刑務官に助けられて文字を覚えたことを素直に喜ぶことのできる石川さんである。そうした善良さ・無心さを、裁判官は法廷で一度も気づかなかったのか。個人のひ弱さに乗じて組織の都合でツギハギされた証拠を、世にある力の偏在を折り込んで見比べることはできなかったのか。とすれば、職業人としても人間としてもお粗末な話である。
そうした一審の判決を、公務員の仲間たちが支持していく。
のろのろとした裁判の進行と、そのなかで入れ替わり立ち替わりして組織防衛に従事する公務員たち。同じ事件を争っても、公務員にとっては争いは仕事の一部に過ぎず、個人にとっては全人生を賭けた戦いとなる。戦いの間に、老いによって個人が自壊する、というのが冤罪事件で防衛にいそしむ公務員たちの冷徹な読みだろう。そして事件に関わった公務員(警察官・検察官・裁判官)は逃げ延びて、平穏に恩給と年金を受け取る。「権力」という勇ましい言葉は、そうした小さな自己保身の分子がぎっしり詰まって、なお個人の人生を引き裂く力を持っている。
石川さんは事実を争った14年余と確定後の服役期間の17年余の計30余年を獄につながれた。あたかも、警察と裁判所に挑むものは倍の制裁を受けるかのような運用がここにある。
事実認定というもっともらしい言葉が、公務員個々の臆面もない感情の表出でしかないことを、いったい誰が否定できるのか。
せめて彼らに呪いあれ。
これもまた古風すぎる言葉だろうか?
日比谷に集まった人々は横断幕と旗を押し立てて、行進し、東京タワーの脇を練り歩いた。警官達は交通整理にいそしみ、ひとめでそれとわかる黒いイアフォンを垂らした私服警官がなりゆきを見守って交差点に立っている。歩道を歩く人、車窓の人はみなこわばった顔で、ようよう守っている暮らしの座標軸をゆるがせかねない存在を無視するのに精一杯だ。
裁判におけるまがまがしい日本語のごまかしは、私たち日本人全体に毒薬のように作用して手足を痺れさせているのだが、痺れて動かない手足を「自由」とみなすことのできる人の多さに、私たちの言葉・思想・未来が行き暮れていることを、攻めるも守るも気づかないまま風化の時が過ぎていく。
(季刊刑事弁護31号〔2002年7月刊行〕収録)
(2020年01月06日公開)