1 代言人規則の制定
前回は、日本人同志の事件にも弁護が認められることになった経緯までご紹介しました。それは、明治9(1876)年のことでしたが、その年の2月22日には、弁護士の前身である代言人についての資格や職務を規定した代言人規則が制定されました。「来ル四月一日ヨリ以後ハ右規則ノ通リ免許ヲ経サル者ヘ代言相賴候儀不相成候條此旨布達候事」ということになりました。
そして、その第1条は、「凡ソ代言人タラントスル者ハ先ツ専ラ代言ヲ行ハント欲スル裁判所ヲ示シタル願書ヲ記シ所管地方官之ヲ検査スルノ後状ヲ具シテ司法省ニ出ス然ル後其許スヘキ者ハ司法卿之レニ免許状ヲ下付ス」と規定していました。
資格制度のない状態で活動していた代言人の評判が好ましくなく、「検査」によって「免許」を与えることにしたのですが、その「検査」にあたっては「刑律ノ概略ニ通スル」(第2条2号)ことが求められていました。しかし、職務の対象として想定されていたのは、民事事件だけでした。第8条は、「代言人ハ訟庭ニ於テ其訴答往復書中ノ趣旨ヲ弁明シ裁判官ノ問ニ答フル者トス」と規定していました。しかし、これも前回紹介したように、司法省は「従来刑事上代言人ヲ用ヒサルハ、必スシモ禁令アルニ非ス、自然ノ習慣ニ有之候」と認識しており、司法省の自由裁量により許可し、または拒否することができるとしていました。翌明治10(1877)年には、「刑事被告人による代言人選任申請を、すべて許可することとなった」(日本弁護士連合会『日本弁護士沿革史』〔1959年〕37頁)といわれています。
2 本格的な刑事弁護必要論の展開
このような状況の下で、その明治10年には、本格的な刑事弁護必要論が主張されることにもなりました。その主張は、その年の8月に創刊されたわが国で最初の法律専門雑誌といわれる「法律雜誌」誌上に「代言辨護ノ刑事ニ欠ク可ラサルヲ論ス」と題して、第4号(9月11日)42-44丁と第5号(9月22日)54-56丁に掲載された論説でした。筆者は、同誌を出版し、編輯長を務めていた金丸鐵(かねまる・まがね)です。金丸は、明治13(1880)年に法政大学の前身である東京法学社の設立にかかわり、後には、代言人(弁護士)として活動することにもなった人物です。
その要点は、椎橋隆幸『刑事弁護・捜査の理論』(信山社・1993年)9頁以下に、「すでに10年に、このような弁護権についての理解がなされていたことは注目されてよいだろう」として紹介されてもいます。しかしその掲載誌を眼にすることは容易ではないと思いますので、少し詳しくその内容を紹介することにしたいと思います。なお、原文は、いくらか読みやすくなるようにいわゆる合略仮名を読めるようにしたほかは、旧漢字、仮名遣いは可能な限り原文に従いましたが、原文中の圏点は省略しました。また、ふり仮名が必要と思われる用語には、最少限〔 〕内に平仮名で読みを入れました。
3 冤罪が絶えないという的確な問題関心
金丸は、冒頭、「凡ソ罪ヲ法庭ニ訴ラルヽ者ニシテ寃枉ニ係ル者古今未タ曾テ其例無キ乎」と問うことからはじめています。この明治10年という時点で、その典拠が、後述のように、欧米の実情によったものか、それ以前のわが国の実情をも念頭においたものかは分かりませんが、刑事裁判では、様々な理由から冤罪が絶えないという極めて的確な問題関心から論をおこしています。
そして、その原因として、二つのことを指摘しています。一つは、裁判官についてです。「法官モ亦タ人ナリ」、「豈法官悉皆聰明睿智一點誤謬ナシト云フヲ得ン乎」ということです。つまり、裁判官も人間であり、誤りを犯すことがあり得るということです。至極当然のことですが、現代においてもなお、十分に認識されているか疑問であったりしますから、当時においては、極めて先見性に富む指摘だったということでしょう。
さらに、もう一つ、被告人が法廷で平常心で弁明することが極めて難しいことを指摘しています。法廷に立つといったことになった際、すなわち「凡ソ人情一偏ニ蒸熱スル所アル時ハ視聽言動從テ狂ヒ啻〔ただ〕ニ其罪ヲ辨白シ得サルノミナラス愈々辨シテ益々其疑ヒヲ重ヌル者無トセス」というのです。英国では、専門家である弁護士でさえ、自らを弁護するときには、支離滅裂になるという諺があることを紹介し、「他ニ於テヲヤ」と、的確に指摘しますが、これもまた現代においてもどこまで十分に認識されているか怪しげではあります。
また、西欧の法廷の実情についての紹介に依拠して、さらに「法官ノ弊」にも言及しています。裁判官は、常に被告人に厳しく対応し、被告人の言に耳をかすこともなく、その弁論によって裁判官を「制止スルコト能ワス」、裁判官は「偏〔ひとえ〕ニ己レノ憶測ニ因テ自カラ其耳ヲ閉塞シ他人ノ理解ヲシテ内ニ入ラシムルノ門戸ヲ餘〔あま〕サス其聽ク所ハ一ニ自家ノ憶斷ニ適スルモノニ止マルト」というのです。すなわち、裁判官の予断という現代にも通じる誤判原因が指摘されています。
そして、その実情から、被告人が「偏〔ひと〕ヘニ法官ノ恃〔たの〕ム可ラサルヲ曉〔さと〕ルニ至ラン」、すなわち、被告人は裁判官に期待するということでは済まないということであり、「既ニ之ヲ曉ラハ宜シク之ニ備フルノ方無カル可ラス是則チ歐米ノ諸国概ネ代言ノ弁護ヲ許シテ人民保護ノ要ヲ得ルモノトスル所以ナリ」というのです。
4 民事事件との対比
ここまでが前半(4号)ですが、後半では、まず、民事事件との対比から論じています。 確かに、「凡ソ訟庭代言ノ辨護ヲ許シテ人民ノ権利自由ヲ保護スル何ソ民刑ヲ分カタンヤ」という意見があり、もっともではあるものの、さらに注意深く考察するならば、「其實大ヒニ異ナル者アッテ刑事ニ於テハ一層保護ノ嚴密ヲ要スル者アルヲ見ル可シ」と指摘します。具体的には、民事訴訟における敗訴は、「多クハ財産ノ上ニ在テ財其身代ノ限リヲ盡シ他名譽ノ幾分ヲ損スルニ過ギズ」というのです。それに比べて刑事では、「一タヒ其庭ニ失敗シテ處斷ヲ被ムルニ至テハ」、「禁獄懲役ノ惨苦ヲ嘗メ身自由ヲ奪ハレ名全國ニ汚レテ復雪ク可ラス」のみならず、「自由ヤ名誉ヤ一挙共奪ヒ去ルノ死刑」ということにでもなれば、「生命ヲ瞬間ニ失ヒ去リ骨肉土ニ帰シテ始メテ止ムニ至ル」ということであり、「焉ンソ一時ノ貧乏ト外聞ノ如何ニ止マル民事ノ結局ニ比ス可ンヤ」という認識のもと「獨リ民事ノ訟庭ニ聽〔ゆ〕ルシ之ヲ刑事ニ許サヽルガ如キコトアラシメバ如何」と喝破しています。
5 武器対等の観点から弁護の必要性を訴える
さらに、訴訟構造との関係にも言及することになります。すなわち、訴追の方式として検察官が登場するわけではなく、被害者を「原告ノ位置ニ立タシムル」場合にはともかく、検察官が原告として登場する方式では、事情が全く異なることを指摘しています。そもそも、検察官は「學ト識トヲ兼ネ威權ヲ有シ口ニ法章ヲ諳ランジ手ニ無數ノ證告書ヲ捧ケ堂々被告ノ罪ヲ鳴ラシ論告彈劾刑ヲ求ムルヲ以テ職トスル」存在であり、それは例えば「彼ノ辨慶入道ニ與フルニ鋭利ノ長刀ヲ以テシ之ヲ上段ニ構ヘシメ無力無藝ノ蠅武者ヲ驅ッテ空拳之ニ當レト云ニ異ラス」というのです。
ここでも西欧の知見が紹介されていますが、法廷で検察官と被告人が相対するについては、「闘塲ヲ開ヒテ兩士ノ雌雄ヲ決スルニ同シ」であり、であれば、「双方用ユル所ノ兵器ハ宜シク平等ノ者タラザル可ラス」ということであり、まさに、「武器対等の原則」に反するとされているというのです。いうまでもなく、公平な審判とは言えないということですが、そのことは、昔も今も変わりはない原理であるとして、「モンテスキウ」の言も援用されています。すなわち、「決闘セシメ其勝敗ニ因リテ曲直ヲ判ゼシ野蠻荒唐ノ世ニ在テスラ尚貴族ト賤民ヲ決闘セシムル時ハ貴族モ固有ノ兵馬ヲ奪ハレ身ハ唯襯衣〔しんい〕ヲ着スルノミニテ徒跣〔かちはだし〕トナリ賤民ト同シク楯ト棍棒トヲ手ニシテ闘フヲ要シタリト」。
金丸はもちろん、その時代と同列に論じるつもりはないとしながら、「今日開明ヲ唱フルノ國ニ在テ審判闘塲ノ一方ニハ許多ノ自由ト權威ヲ與ヘ他ノ一方ニ於テハ少シモ防禦ノ方法ヲ與ヘザルカ如キコトアラシメバ豈能之ヲ公平ナル治罪ノ法ト云可ケンヤ豈能ク人民人文ノ自由ヲ得ルモノト云ヲ得ンヤ」と締め括っています。
欧米の影響を受けたものとはいえ、明治初年に刑事事件について「人民ノ権利自由ヲ保護」することを第一義に、武器対等の観点から弁護の必要性を説いたこのような主張が存在したことには、あらためて注目しておきたいと思い、紹介させていただいた次第です。
*このほど、本連載の著者が『刑事弁護の展開と刑事訴訟』(現代人文社刊)を出版されました。戦後における刑事弁護の歩みとその役割を刑事司法の実状との関連で解説しております。(編集部)
(2019年12月19日公開)