福岡事件が起きたのは1947(昭和22)年のことだ。
敗戦による国家の崩壊によって、日本の国民はインフレと物資の欠乏にあえいでいた。食料はもちろんのこと、服が、石鹸が、タオルがなかった。
事件は、福岡市のとある場所で、軍服の取引をしていた商人2人が拳銃で撃たれ、日本刀でとどめを刺されて殺されたというものだ。うち1人は中国人で、福岡県華僑総会会長という有力者だった。
約1週間後に逮捕されたのは7人の日本人だった。32歳の元海軍少佐・西武雄、30歳の石井健治郎。残り5人は18歳から22歳で、うち4人が軍隊上がりだった。
警察は事件を強盗殺人事件とした。西武雄が中心になって強盗殺人の計画を立て、殺しを請け負った石井健治郎と両名の周辺にいた若者が実行したとするものだった。事件当日、西が持ち帰った取引の手付金8万円と射殺事件が組み合わされた構図だった。
石井氏は拳銃を発射したことを認めたが、誤殺だと主張した。事件直前に顔を揃えた7人は、暴力団の抗争に使う拳銃の売買のために集まったのであり、強盗殺人の計画はなかった。軍服取引の話のこじれから拳銃を撃とうとした被害者を、正当防衛のため撃ったというのである。
西氏も8万円の金を持ち帰ったことを認めたが、射殺事件とは別個のものだと主張した。
西・石井の両氏は一審(1948〔昭和23〕年)で強盗殺人罪を認定され、死刑判決を受けた。その後、最高裁(1956〔昭和31〕年)で確定し、2人は死刑囚となるのである。
当時、日本は占領下にあり、中国は戦勝国であった。福岡事件の立件・起訴にはGHQの干渉があり、裁判所は仲間を殺された華僑社会の圧力を背景に量刑判断がなされたと語られていく。
筆者が語ろうとするのは、その裁判の後のことだ。
2人の死刑囚が収監された福岡拘置支所(福岡市百道)に、ほっそりとした青年僧侶が教誨師として着任したのは1952(昭和27)年のことだ。僧侶は32歳の若さであった。
推薦したのは刑務所の所長だった。その頃、僧侶は自ら主宰する「コスモス」という宗教誌の印刷を刑務所に委託していた。印刷作業に従事した受刑者が、違反を承知で反故紙を房内に持ち込み読みふけった。違反が発覚して、宗教者としての力を認められたのである。
青年僧侶の名は古川泰龍。籍は真言宗にあったが、宗派にこだわらない念仏者であった。新興宗教に貢いで極貧の暮らしを選んだ父のもとで育ち、満州で戦傷を受けたために命拾いをした。戦後は自らも生活を省みない求道生活を選んだため妻と子を義父に取り上げられた経歴を持っていた。宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」を愛し、九州一円で講話の旅をして糊口をしのぐ暮らしである。
《死刑囚教誨を軸に私の求道と伝道の生活が展開した、といえるほど私は死刑囚教誨に力を入れていた。(中略)生来底辺の人にもっている同情というものも働いたであろうが、同時に一貫して求めてきた生死解脱の願いが、私を彼らに接近させたのであった。だから私には、彼らを教誨するなどいう意識はなく、ともども生死解脱の道を求めて励まし合う同行の仲であった。》(古川泰龍『叫びたし寒満月の割れるほど』法蔵館、平成3年初版)
この回想記を読むと、これほどに捨て身の宗教者が現代の日本にもいたのかと、驚嘆するしかない。生活苦にあえぎながら、自らが通過してきた救いと求道を腑分けし、その偽りを凝視し、告白していく。古川師は、宗教の教条を気休めに使う教誨師とは違っていた。
1952(昭和37)年、古川師は福岡事件の助命運動に身を投じる。福岡拘置支所で西・石井両氏を10年間凝視した末の選択だった。
《筒山裁判長(引用者注 原文ママ。福岡高裁の筒井裁判長のこと。以下、筒井に訂正)が被告人の最後の陳述を聞かず、被告人らを騙してあとで聞くからと言いながら、強引に判決文を読み出したことであります。そこで私は裁判長に『あなたは今私に強盗罪を付けられたが、私がいつ強盗をしましたか』と質問すると、筒井裁判長は『西が強盗を計画して君がそれに加担したから強盗罪を付けた』と言われるので、私が『どこで加担しましたか』と言うと『旅館で加担したんだろう』と言われた。
(中略)筒井裁判長は『暗々裡に、強盗殺人をしようということを知ったんではないか』と言われるのです。私は『考えてもみて下さい。初対面の人から何の報酬も聞かずに強盗殺人をしようと、暗々裡に加担する馬鹿がいるでしょうか。裁判長は、そんなことで加担されると思われるのですか』と激しく理詰めしました。ところが筒井裁判長は真っ赤な顔をして『私は神様でないから本当のことはわからない。神様だけが知っているだろう』と言われた。》(石井氏の回想、同前書より引用)
2人の恩赦願いが中央更生保護審査会で却下され、死刑が待ったなしとなった状況も、古川師の背中を押した。8人家族の生計を立てる道を捨て、古川師は東京に法務大臣を訪ね、事件の再調査を行い、資金調達の托鉢を行い、5カ月をかけ原稿用紙2000枚におよぶ真相究明書を執筆した。
それは予想もしない長い闘いの、ほんの始まりに過ぎなかった。
(季刊刑事弁護39号〔2004年7月刊行〕収録)
(2019年08月15日公開)