志布志事件は2003(平成15)年4月の県議選にからんで利益供与をしたとされる者と利益供与を受けたとされる者合計13人が起訴された事件だ。
この事件は2003年7月3日に公判が始まり、50回を超える公判を終えて今なお継続中である。志布志町(現在は志布志市)の四浦懐集落で4回にわたって開かれたとする会合の存在そのものが疑わしいことはたびたびここで書いてきたが、裁判そのものの道行きもまた初めから怪しい動きに満ちていた。
まず第1回公判の前日にあたる7月2日の夜、翌朝10時に裁判があるにもかかわらず、検事が鹿児島南署の代用監獄にいる被告人の一人を訪ねている。しかも検事は被告人から、その直前に弁護人が接見した内容を聞き取ったのである。
「裁判の前夜ですから、弁護士は裁判の打ち合わせのために被告人に接見して裁判に対するアドバイスをしているのです。その直後に検事が被告人を訪ねて接見の内容を調べている。被告人と弁護人の秘密交通権を侵すもので、翌日の裁判で検察の意図どおりに証言をさせるため被告人を抑え込もうという意図があるとしか思えない。しかも接見内容を聞き取った調書をもとに、検事は7月3日の第1回公判で、裁判官に対して弁護人解任請求を出しているんです」(野平康博弁護士)。
7月4日、第1回の単独審を担当したM・K裁判官と上司にあたるO・H裁判官の2人は、検事の要求するままに弁護人から口頭聴取書を取り、弁護人が接見に際して家族の手紙を見せたかどうかを確認した。
裁判前夜に検事が訪ねた被告人は、会合の場所を提供したとされるキーマンであり、4回の会合の内容をすりあわせていくための中心的な供述をした人物だった。弁護人が接見室で、透明仕切り板越しに被告人に見せた手紙の内容は「信じているので、本当のことを話すように」という家族からの励ましであった。
7月7日、裁判所は国選弁護人を解任する。その翌日の7月8日、単独審を合議体に組み直したO・H裁判長は新たな国選弁護人を選任している。検察が裁判所を動かして、弁護人を牽制するという既成事実が残った。
「裁判所は被告人に弁護人を解任していいかどうかを確かめてもいない。依頼者との信頼関係が失われたという理由で、弁護士が解任してほしいと申し出ても、裁判所は簡単に認めないものです。こんなに簡単に解任するのは珍しい。検察官からの弁護士を懲戒請求するなどのプレッシャーに裁判官が屈したとしか思えない。弁護人が罪証隠滅を図れば懲戒処分を受けても仕方ありませんが、親族の手紙を見せただけで懲戒になることはありません。解任された人は国選弁護を熱心にやっている若手弁護士で決して評判の悪い人ではない。後で選任された弁護士に変わっても、弁護活動そのものが変質したわけでもないのです。しかし、構造そのものがおかしい。当事者主義や対審構造を否定して、弁護士は裁判の邪魔だという思想があるとしか思えない。公判はこの事件の第二のスタートですが、そこでも当事者の能力の足りないところを補う弁護人の存在を消して、当事者を無能力にして罪を認めさせようとしている。戦前の、糾問的で職権主義的な訴訟構造を検事や裁判官がイメージしてるようにさえ見えます」(野平弁護士)。
野平弁護士はこの弁護士解任劇に抗議するため、7月23日の第3回公判において、O・H裁判長と右陪席のM・K裁判官に対して忌避の申立てを行っている。
13人の被告人についた弁護人グループのなかには、当初、供述調書をめぐって2つの意見があった。1つは会合を認めた供述調書を証拠として同意し、裁判官に読ませて、その内容の杜撰さや信用性を公判で検証する。後にアリバイを立証しようという戦略。
もう1つは、供述調書を証拠とすることに不同意とし、供述調書の任意性をめぐって徹底的に争うというものだった。
「この法廷に裁判官はどこにいるんだ、という状況のなかで、裁判所を信頼してはならない。きちんと任意性を争うというのが、議論の末に出てきた結論だった。そこで淡々と被告人質問をやり、取調官を調べる。検察官の立証が終わったところで、弁護側はアリバイの立証と、秘密交通権侵害の立証をやっていったわけです」(野平弁護士)。
こうして裁判が進むなかで、取調官が公判で嘘をつくという事件があった。取調べの際、被告人の一人が親族に電話をかけて会合の日時を相談したやりとりを、警察がテープに録音していたのだが、取調官は録音していないと証言した。ところが、午後になってテープの存在を認めたのである。
また取調主任の警察官は弁護人に尋問されるなかで、県議選の当日、2位で当選を果たした県議のもとにでかけて選挙違反の情報収集をしていたことを証言している。これは主犯格の被告人である中山信一元県議の選挙違反の捜査にあたり、中山氏と対抗する政治家と警察の関係が影響を与えたことをうかがわせるものであった。
弁護側は、裁判の席で複数の取調官が証言した内容をつきあわせ、5人の被告人が取調べのなかで会合を認めていく経緯を分析した。すると1週間あまりの取調べの間に、会合の回数が1回、3回、4回と増えていったことがわかった。しかも、身体を拘束されていた被告人たちの供述内容が、まるで伝染病のように広がり、回数が揃えられていく。取調べを指揮する取調官のもとで、複数の取調官が隔離された容疑者たちのもとへでかけ、供述内容が一致するように供述を強制していった様子が想像されるのである。
2006(平成18)年2月15日には、O・H裁判長率いる合議体が志布志市にでかけて現場検証を行い、志布志市内にアリバイのあった中山信一被告人が四浦懐集落で会合を持つことができたのかが検証された。
前回(その4)のこの欄で、5月17日に鹿児島地裁で重要な公判が開かれると書いた。それは志布志事件に関する供述調書を証拠採用するかどうかという、判決に大きな影響を与える公判になるはずだった。
ところがこの3月になって突然、O・H裁判長は定年を待たずに退官をし、公証人になってしまった。13人(うち1人はすでに死亡)の被告人は、3年の間、50回もの公判に出るために、仕事を休み、往復約4時間の道のりを旅して裁判所に通ってきた。O・H裁判長の退官は、こうした被告人たちの苦労を無視し、公判で得られた心証を破棄し、裁判官としての責任を放棄する結果となった。
5月17日の公判は新しい裁判長によって裁判が更新される手続きがとられるだけの虚しいものとなり、裁判制度は被告人たちにさらに不安な生活を強いることになった。
(季刊刑事弁護47号〔2006年7月刊行〕収録)
(2019年06月17日公開)