蝉時雨の聞こえる夏の終わりに、私は松川事件の元被告ふたりに会った。
1人はすでに83歳、もう1人は3つ年下だ。
「アメリカが、イラクを悪の枢軸と言う戦略と同じですよ」。
鈴木信さんが言った。「権力側というのは、ごく普通の労働運動をいつも事件にしてきたんだ」。
鈴木さんは保釈になるまで9年9カ月、拘置所に拘禁された。
「事故の直前に現場近くで目撃された9人を、なぜ捜査陣は追わなかったのか。壊れた線路の状態から見て、事故の真相はどういうものだったのか? 今でも事件に対する疑問はバンバンある。客観的に言えることは、列車が転覆して3人が死んだということ。まったく関係のない労働運動の関係者20人が逮捕されたこと。松川事件は警察・検察の作り話だったということです」。
年下の阿部市次さんは逮捕されたとき、26歳だった。それから保釈になるまでの9年7カ月、拘置所にいた。
「私は逮捕されたとき、理由がさっぱりわかりませんでした。いったい何の容疑なのか、捜査官に向かって尋ねたほどです。彼らは答えようとしなかった」。
2人は昭和24年9月22日に逮捕され、数日で拘置所に送られた。代用監獄に留め置かれて取調べを受けたわけではなかった。
松川事件の被告人は、自白組と否認組に分けることができる。8人の自白組のうち、6人が19歳から20歳の若者であり、彼らの供述調書によって松川事件のストーリーが組み上がっていく。
逮捕から2カ月あまり後に始まった第一審の公判をみつめながら、鈴木さんや阿部さんは、自らを拘束している事件の全体像を初めて理解していくのである。
検察官の求刑もまた怪しい。20人の被告のうち10人に対して死刑を求刑するが、自白組の赤間被告1人を除けば、いずれも容疑を否認した人々であり、その多くが労働運動の組合長や委員長、委員を務めていた中心メンバーだった。否認組は松川事件という検察の描いたパズルの、首謀者や実行者という部品であった。
死刑を求刑された斎藤千氏は男性ながら名を「ゆき」と読んだ。捜査陣はその名前で、女だと思い込んだらしい、斎藤千という女性が列車転覆の作戦会議に参加した様子やセリフをいきいきと自白に盛り込んでリアリティを演出した。「女性」が来て「謀議」に参加し「今日のことを話すと命はないぞ、と脅した」と語られたその言葉そのものが、自白の虚構性を饒舌に証明している。にもかかわらず、第一審の裁判官は斎藤氏に懲役15年の判決を下している(二審では無罪)。
自白をした人々も公判では否認に転じた。公判の記録を読んで驚きを感じるのは、自白した被告たちが自ら反対尋問に立って、自分を責め立てた捜査官に果敢に反問していることだ。
問(赤間被告) 証人は私にお前は列車転覆させても大した事はないのだ、一番は大者だから早く言え言えと言って、無理に言わせようとしたのはどういうわけですか。
答(玉川警視) 私は調べる時供述拒否権を告げてから聞いているのでありますから、無理に言わせようとした事はありません。
問 それでは私が作ってでも言ったというのですか。
答 そうです。私はこの様な事を聞いたのは初耳であります。
問 証人は言わないと言いましたが、言っても言ったと言えないのではないですか。
答 そのような事はありません。
自白を偽装して組み立てられた捜査陣の物語からいくつもの矛盾が現れた。犯行に向かった道筋が途中で変更されたり、「謀議」に参加したとされた者が、アリバイがあるために自白の中から曖昧に消え去ったり……。なによりも国鉄から10人、東芝から10人と名簿の中から拾い出したような逮捕者が「謀議」をし、「列車転覆工作」をした、とするための論理の綻びや不自然な継ぎ当てが公判で露わになった。
しかし、鈴木信さんは第一審・第二審ともに死刑の判決を受け、阿部市次さんは第一審で死刑、第二審で無期懲役の判決を受けた。
そうした第二審の進行中、明治生まれの小説家が松川事件裁判に目を向けていた。父を小説家に持ち、昭和初期に私小説に身を置いた広津和郎だった。声高なプロレタリア文学とも戦時中の戦意高揚文学とも距離を置いて生きてきた広津は、まず被告たちの文集に目を止め、その言葉を本物と見立てた。そして、法廷記録を取り寄せ裁判官の言葉の吟味にかかることになる。
文士・広津和郎の働きが実を結び、被告全員の無罪が確定するのは、事件発生から14年後の昭和38年のことであった。
次回(その3)では、そうした広津の働きを見ることになる。
(季刊刑事弁護37号〔2004年1月刊行〕収録)
(2019年03月08日公開)