
友達が裁判員!?
前作『裁判員のあたまの中』に収録されている裁判員経験者に、古平衣美(こだいら・えみ)さんがいる(「予定どおりの3日間」115頁~)。彼女は、自身の経験から人と議論する素地を子どものうちに身につける必要性を痛感し、子ども向けの「ディスカッション講座」を始めた。私も当初からお手伝いをしていて、子どもたちの自由な発想に毎回感動していた。その古平さんから、「実は、友達が裁判員に選ばれたらしくて……」と相談を受けたのだった。奇しくも、そのお友達というのが彼女の講座にお子さんを参加させていた吉中宏子(よしなか・ひろこ)さんだ。しかも、そのお子さんは現在、大学の法学部に在籍しているという。
会社の職員手帳に、「裁判員に選ばれた人は公休になります」と書いてあって、企業としての決まり事みたいな感じで(裁判員休暇制度が)整っていたことを初めて知りました。でも、丸2週間も会社を休んだのは初めてです。
ディスカッション講座以来、約10年振りにお会いした。当時、小学生だったお子さんが大学生というのも頷ける歳月だし、なんといっても法学部へ歩みを進めていることが感慨深い。東京丸の内にオフィスを構える大手企業が吉中さんの勤務先だ。制度施行時から裁判員休暇制度が整う国内でも一握りの企業の会社員であり、家では娘をもつ母親、主婦でもある彼女の裁判員経験は、ついこの前と言ってもよいほど新鮮だ。
まあ自分には関係ないし、法律のこととかもわからないし、どういう人がなるんだろうって思っていました。法律に関わるようなこともなかったです。法の下で生活をしているわけですけど、それが当たり前のルールとして通っていて、いちいちこれは法に触れるとか、そんなふうに考えることはありませんでした。

日々の日常を当たり前にきちんと生活する人なら、大いに共感できる。ところが、その日常を揺るがす通知が突然くる。2023年秋に裁判員候補者登録通知が吉中さんに届いた。
裁判所からで、封筒開けるまでは「私なにかしたかな? 交通違反? 訴えられた? 税金払ってない?」身に覚えはないけれど、裁判所からの通知なんて初めてだし、どちらかというと裁判所からなんて良いものではないから。
恐る恐る開けたら、(登録通知で)「きたぁ!」というか、ホッとしました。こんなに簡単に普通の一般市民に届いちゃうというのがなんとなく不思議で、名簿に記載されましたってだけで選出されたわけでもないし、それがどのくらいの確率かもわからないけど、私なんかが記載されるくらいだから、いろんな人に来るんだなって。家族には言いませんでした。説明も面倒くさいし目につかないところに隠しました。
確かに、裁判所からの通知で良い知らせというのはあまり聞かない。それでも、この時点では遠い世界の出来事で、「どうせ当たらないし、自分には関係ない」と捉えていた。ところが、大学法学部の娘さんに打ち明けたことで少しだけ興味が湧く。
3日でいいのかな?——呼出状
年明けに娘に話したら、「ママ、そんなの何万人に1人なんだよ!」って、すごく喜んでくれて安心しました。「絶対やったほうがいい! 私がやりたい!」って。そうなんだ、そんなにすごい確率だったんだって知って、でもまだ記載された段階だからぬか喜びはしないようにしてました。
娘さんの歓喜の声に心躍った。もちろん、未来の法律家にその機会が巡ってくることの意義は大きい。しかし、今回は母である吉中さんの出番であり、彼女の物語だ。娘さんへの告白から程なく経った4月のある日、裁判所から2通目となる呼出状を受け取る。
そこ(呼出状)に裁判の期間(6月13日~27日)が記載されていて、でも意味がわからなくて、古平さんに「毎日行かなければいけないの?」って聞いたんですよ。そうしたら、「私は3日でしたよ」って言われて選べるのかな、と思いました。でも、どう考えても、この日程はすべて出廷できるように確保してくださいって書いてあるし。でもまあ、一応こういうふうに書いてあるけれど3日とかでもいいのかな? とか、自分の都合でそう捉えていました(笑)。
だって、こんなに毎日休むなんて、いくら公休扱いですよって会社が言っているとはいえ、2週間も休むのは厳しいかなって。でもまあ、5月31日(選任手続日)は午前中だけ休みを取りました。まだその時は全日程を必ず出るのか曖昧だったので、会社にはもし選ばれて詳細がわかったらそれも報告しますと。
この頃に、私も古平さんから冒頭にある相談を受けた。3~4日で終わりますと宣伝していた制度初期から、裁判員裁判の公判期間は膨らみに膨らんだ。今や平然と社会で働く一般市民から2週間もの時間を拘束しようとする。強いて言えば、呼出状から選任手続日まで1カ月以上、選任手続から初公判までが2週間とかなりの時間的余裕を設けている点が救いかもしれない。
さらに、吉中さんの場合は勤務先からの大いなる理解が大きな後押しとなった。
上司に相談したら全然OKで、さらに上の部長なんかすごく興味津々で、「どうやって選ばれるの? 面白そうだね。いい経験だね」って。
私の仕事は2人ペアでやる業務でして、どちらかが休むともう片方がフォローをする形。たまたま忙しい時期ではなかったし、1人でもなんとかできるかなというレベル。だけど、2人分の仕事を全部やらせることになるから、絶対に負担はかかるだろうし、申し訳ないなというのはありました。でも、すごく理解のある人で、仕事もできる人。もちろん、普段から関係も悪くありません。快くOKしてくれたので、部長も安心してました。
大企業という点はもちろん加味すべきである。しかし、その中で働く人たちの多大なる配慮と優しさ、決して歯車ではない人の温かみが吉中さんを裁判所へと送り出す。何より普段からの人間関係を上手に構築してきた彼女の人柄が大きいだろう。
ちょっと惜しいぞ——選任手続
選任手続当日、吉中さんは余裕をもって30分くらい早く裁判所に着いた。
受付の人が、持ってきた書類と本人が間違いないかを2人でチェックするんですけど、のんびりで、ゆっくり丁寧に一人ひとりやるので、行列になっていました。全体的にも言えることですが、公務員的というか仕事の手際が悪かったんですよ。例えば、自分から気づいて窓を閉めるとか、そういう気配りとかあるじゃないですか。こういう場をセッティングする役回りとしてどうなのって思いました。
いきなり痛烈な指摘が入った。2人ペアで、会社としてチームで日々の業務を円滑に運んできた吉中さんだからこその意見だと思う。


気を取り直して選任手続の様子に移ろう。当日は30名弱の候補者が集まったそうだ。
事件のことは、机に冊子が置いてあって、お読みくださいみたいな感じで、被告人の名前や覚醒剤密輸とかが書かれていました。それから裁判官3人、検察官3人、弁護人1人が出てきて、自己紹介と概要説明をしました。こんなふうに私たちに頭下げるんだ、「へぇー」て感じでした。
裁判長がすごく腰が低くて、にこやかに穏やかに説明してくれて。爽やかだったので話もすっと入ってきたし、難しい事件をこれからやるんだろうけれども、なんかこんなに低姿勢で語りかけてくれるんだなって。
検察官もすごいさっぱりして真面目そうな若手の男女とベテラン風の検事なんだけど、にこやかに挨拶してくれて。弁護人はなんかお金持ちそうだなって、弁護士ですっていうオーラがプンプン出ていました(笑)。やっぱり弁護士は別格というか、国家公務員と自分で稼いでいる人の違いなんだなって。
弁護人の評価には突っ込みどころ満載だが、本質を捉えた的確な受け止め方だと思う。そして、この法曹三者との対峙を経て吉中さんの気持ちに変化が現れる。
それまでは当たらないつもりで、帰る準備のことばかりを考えていたんですけど、ちょっと待てよと。これ娘が言っていたみたいに人生で一回あるかないかのチャンスなのかも、やっぱり当たったら嬉しいかもって思えてきて。会社には当たらないからすぐ帰ると言ってたんですけど、なんかちょっと惜しいぞってなってきたんです。この歳になると後悔しない選択をしたい。やらずに人生終わるのはなんか寂しいなって、だとしたら、これはやったほうがいいよねって。(裁判官たちの)雰囲気的にも悪くなかったし。
裁判所と職員への失望を挽回した法曹三者の存在感。彼女が乗り気になったら、必然的な運命が動き出す。
(選ばれたときは)100%心から飛び上がるくらい嬉しいとかはなくて、これから始まるんだなっていう、自分がやったことがないことを経験できるんだというワクワク感とちょっとの不安と緊張感と、それらが入り混じった感じでした。でも、裁判員1番だったから本当に宝くじに当たったみたいでした。
ものすごく率直な感想だと思う。単純な喜びだけではない複雑な心境に深く共感する。そして、男女3人ずつと、補充も男女1人ずつの8名。20代から60代までのモデルケースのような裁判体ができあがった。
候補者控室で宣誓手続の後、評議室へ行って1時間くらい自己紹介。事件のことには触れませんでした。ただ概要だけは知っておいてくださいって言われましたけど、さっぱりわかりませんでした。メキシコからアンカレッジ(アメリカ)に行って、そこからどこどこっていっぱい経由地が書いてあって、途中で荷物が2つに分かれたりして、もうどこまで行ったら羽田に着くのって感じで。
この日、午前休にしていた吉中さんは、裁判所を出てから2つ隣の東京駅へ急いだ。
会社に伝えたら、みんなでザワザワして、「大丈夫?」みたいな感じで迎えられました。仕事の引継ぎとかはなくて、ただ2人でしていることを1人でとなるだけでした。でも、「いいな、いいな、私も行きたいな」って言われて、私も行かせてもらう身なのに、「すごくいい経験だと思うよ」とか言っていました(笑)。
なにかあったら残業なんだろうな、と思っていたら、朝8時から早出してゆっくりやるよみたいな感じで。上司も「(早出残業は)もちろんいいよ」ってOKしてくれて、本当に有り難い環境だったから気持ちよく(裁判に)行けました。
(2025年04月11日公開)