リレー連載 袴田事件無罪判決を読む<br>第1回

リレー連載 袴田事件無罪判決を読む
第1回

袴田事件無罪判決を受けて

自白「ねつ造」と静岡県警の拷問捜査

指宿 信 成城大学教授

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6 自白の任意性をめぐる学説状況

 では、当時学説は自白の任意性問題についてどう解していたのか。

 文献データベースによれば「自白&任意性」というキーワードで戦後に登場する書誌は、1948年に平野龍一が雑誌『判例研究』2巻5号に寄稿した「自白の任意性」が最初のようだ。最高裁大法廷(昭和23年7月14日刑集2巻8号856頁、LEX/DB27760037)が、自白が強制によるものとする弁護側の主張を退けた判決を紹介して、多数意見を批判、弁護側からそのような主張があった以上証拠調べをすべきだったとの栗山裁判官の少数意見を是と論じている。平野は、「多数意見は……自白が強制に基くものであるということはできないとしているが、これは事実の取調をも行って積極的に任意性を認定しなければならないことを無視したものであって不当」と痛切に批判している。

 他方、当時流通していた基本書等では、新憲法下での自白法則の意義が早速強調されていたことは見過ごすことができない。たとえば、刑事訴訟法の立案に関わった東京大学教授の團藤重光は刑訴法の施行に合わせて『新刑事訴訟法綱要』(創文社、1948年)を刊行している。同書では、「任意性の挙証責任は訴追側にあるわけである」とされ、強制の認定にあたっては「供述を求める者が主観的に強制の意思を持っていたかどうかは、関係ない」として諸状況から客観的に判断することを求めている。

 一方、京都大学教授だった平場安治も1949年に刊行した『新刑事訴訟法』(法律文化社)において、「任意でない自白につきものの拷問がたとえ憲法上禁止され、または刑法上職権濫用罪で罰せられても、なお証拠として許容されるのであれば、拷問はあとを断たないおそれがある」と319条に拷問禁止を実効させる政策的機能を認めている。

 より拷問防止の観点を強調したのは台湾帝国大学教授を務めていた安平政吉である。1949年に刊行された『改正刑事訴訟法』(天竜堂)では「世界いずこともあまりにも被告人の自白に重きを置きすぎる結果は、ややもすれば、自白を求めること性急に失し、その手段として拷問をなすが如き弊害が少なくなかった」として319条1項の法意を強調している。そのうえで「単に強要された自白に止まらず、さらに進んで強要の蓋然性並びに危険性ある状態のもとにおいてなされた自白をも、その証拠能力自体を否定しなければならなくなるのである」と現在の強制のみならず強制の危険ある状態でなされた自白も任意性を否定すべきと論じた。先の小島事件差戻し無罪判決の判断がこれを踏襲していることは論を待たない。

 このように、静岡3事件の捜査の頃、すでに強制によって得られた自白に証拠能力が禁じられる自白法則が採用されたことの趣旨を、基本書類が書き漏らしていたわけではないことがわかる。しかし、その解釈も事件への適用も、静岡3事件はもちろん島田事件にあっても袴田事件にあっても当時、裁判官たちのあいだで実践することができていなかった。その実態を糾弾するべく、前述の清瀬は前掲書において、「裁判官は頭をきりかえよ」との見出しで本気で原則(憲法38条、刑訴法319条)を守らない裁判官たちに怒りのこもったメッセージを送っている。

7 おわりに

 袴田事件の確定一審が出たのは1968年であり、先の学説の議論状況からは進歩が見られる頃である。確定判決は「前記のごとき(外部と遮断された密室での長時間の強制的・威圧的な:筆者注)司法警察員の取調の結果ないし取調の影響のもとでなされたことが明らかな自白を録取した供述調書28通は、刑事訴訟法第319条第1項によって証拠とすることができないので、職権でこれを排除」するとしており、検察官調書についても「このような(起訴前の取調べも起訴後の取調べ方法も違いのない:筆者注)取調によって作成された被告人の検察官に対する供述調書16通は、証拠とすることができない」として証拠排除した。ここまでは前述の最高裁判例に忠実な判断を示したのである。

 ところが、反復自白の記録された昭和41年9月9日の供述調書のみについては、「前記司法警察員の被告人に対する取調が強い影響を及ぼしたものとは認められない」として因果関係を否定し任意性を認め、これを証拠採用した。これは袴田事件という死刑冤罪事件にあって、いわば喉に刺さった骨のような存在というべき“証拠”である。

 一審判決が異様なのはその判断部分に続いて「被告人から自白を得ようと、極めて長時間に亘り被告人を取調べ、自白の獲得に汲々として、物的証拠に関する捜査を怠った」と指摘し、わざわざ付言と題して「本件捜査のあり方は、『実体真実の発見』という見地からはむろん、『適正手続の保障』という見地からも、厳しく批判され、反省されなければならない。本件のごとき事態が二度とくり返されないことを希念する」と釘を刺した部分である。

 周知のとおり、同判決の裁判体のひとりであった熊本典道元裁判官は後に無罪意見であったことを明らかにし、それでも判決文を起案させられたことを告白した1)。その無念さがこのような異様な判決文となったことは間違いない。熊本は当時の静岡県警による取調べの前近代的な手法を厳しく糾弾し、その自白獲得手法を司法が受け入れられないことを述べておきたかったのだ。そうした悪しき“伝統”が3事件時代から脈々と受け継がれていたことは想像に難くない。

 今回の再審無罪判決における自白「ねつ造」論は、いわば熊本・元裁判官の抱いた無念をくみ取った判示であったということができるだろう。たとえ検察官に控訴されようとも歴史にその事実を刻み込みたかったのではないか。こうしてようやく司法は、その喉につかえた骨を取り除くことができたのだ。

 いまの時代のわたしたちのなすべきことは、静岡県警のみならずこの国に蔓延した過去の自白獲得手法を徹底的に調査して批判的に総括し、21世紀に相応しい取調べ手法を確立するよう国をあげて取り組む以外にないだろう2)


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(2024年11月22日公開)


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