1 歴史的判決の「光と影」
2024年9月26日、静岡地裁(國井恒志裁判長)は、袴田巖さんに無罪判決を言い渡しました。歴史的瞬間に立ち会おうと、支援者、マスコミ関係者、そしてこの判決を再審法改正に直結させるために大挙して静岡入りした日弁連再審法改正実現本部のメンバーたちは、無罪の速報に喜びを爆発させ、地裁周辺は異様なほどの熱気と高揚感に包まれました(その様子は、日弁連再審法改正実現本部が制作した判決当日のドキュメンタリー動画でご覧いただくことができます)。
法廷では、巖さんの逮捕から現在に至るまで人生を賭して弟を支え続け、91歳となった姉のひで子さんが、裁判長に促されて法廷中央の証言台に座り、2時間あまりに及んだ判決の言渡しを聞きました。裁判所に入る前は「今日も平常心」と笑っていたひで子さんも、無罪宣告を聞くと涙が止まらなかった、と判決後の記者会見で「その瞬間」を振り返りました。
死刑事件として35年ぶり5件目の再審無罪判決となった巖さんの無罪判決は、その冒頭で、捜査機関による「三つのねつ造」があったと認定しました。まず、巖さんの自白調書のうち確定判決で1通だけ証拠として採用された検察官作成の調書について「黙秘権を実質的に侵害し、虚偽自白を誘発するおそれの極めて高い状況下で、捜査機関の連携により、肉体的・精神的苦痛を与えて供述を強制する非人道的取調べによって獲得され、」「実質的にねつ造された」ものであると断じました。
次に、死刑判決の中心的な証拠とされた「5点の衣類」についても「本件犯行とは無関係に、捜査機関によって血痕を付けるなどの加工がされ、1号タンク内に隠匿されたもの」と認定し、さらに5点の衣類のうちのズボンの共布とされ、巖さんの実家から押収された端切れについても捜査機関のねつ造であるとしました。そして、これらのねつ造証拠を証拠から排除した結果、残る情況証拠では巖さんを犯人と認定できないとして、無罪の結論を導き出したのです。
このように、再審無罪判決は、警察のみならず検察も「ねつ造」に加担したと判断し、捜査機関を厳しく批判する画期的な内容でした。しかし、その法廷に、無罪判決を誰よりも待ち望んでいた「被告人」の袴田巖さんの姿はありませんでした。事件から58年、死刑確定から44年、最初の再審請求から43年半、あまりにも長すぎる雪冤までの歳月の中で、日々死刑執行の恐怖に苛まれ続けた巖さんの精神は破壊され、法廷に立つことすらできなかったのです。
そして國井判決は、あれほど捜査機関を批判した一方で、再審無罪に至るまでの手続に膨大な年月を要した経緯や、確定審や第1次再審、第2次即時抗告審における裁判所の判断の誤りについては、判決文の中で言及しませんでした。
2 控訴断念をめぐる検察・法務省・内閣の姿勢
無罪判決の歓喜の後、判決が「捜査機関(警察のみならず検察も含む)によるねつ造」を認定したことで、検察官が控訴するのではないか、という懸念が広がり始めました。判決から10日経っても検察官は態度を明らかにせず、検察官OBの、あたかも控訴を煽るようなコメントが新聞各紙に掲載される始末でした1)。
判決から12日後の10月8日、事態は急展開を見せました。午後3時過ぎに朝日新聞が「検察官控訴断念」を速報で報じ、その後、検察官から被害者遺族と弁護団に控訴断念が伝えられたことが判明しました。翌9日、静岡地検は上訴権放棄の手続を取り、巖さんの再審無罪が確定しました。
ところが、再審無罪確定の感動を帳消しにする事態が発生しました。控訴断念にあたり、畝本直美検事総長が公表した「談話」です2)。この談話は、まず、検察官が再審公判で有罪立証の方針で臨んだことについて、「改めて関係証拠を精査した結果、被告人が犯人であることの立証は可能であり、にもかかわらず4名もの尊い命が犠牲となった重大事犯につき、立証活動を行わないことは、検察の責務を放棄することになりかねないとの判断の下、静岡地裁における再審公判では、有罪立証を行うこととしました」と弁明するところから始まります。
その上で談話は、「本判決は、消失するはずの赤みが残っていたということは、『5点の衣類』が捜査機関のねつ造であると断定した上、検察官もそれを承知で関与していたことを示唆していますが、何ら具体的な証拠や根拠が示されていません」「判決が『5点の衣類」』を捜査機関のねつ造と断じたことには強い不満を抱かざるを得ません」と、無罪判決を強い口調で批判しました。あたかも、検察は今もって巖さんが本件の真犯人であると考えているかのような書きぶりです。
では、そこまで判決に不満を持ちながら、検察官はなぜ控訴を断念したのでしょうか。談話は次のように述べています。「本判決は、その理由中に多くの問題を含む到底承服できないものであり、控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容であると思われます。しかしながら、再審請求審における司法判断が区々になったことなどにより、袴田さんが、結果として相当な長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれてきたことにも思いを致し、熟慮を重ねた結果、本判決につき検察が控訴し、その状況が継続することは相当ではないとの判断に至りました」
要するに検事総長は、「袴田さんは犯人であり、再審無罪判決は間違っているが、これまでの裁判所の判断がてんでバラバラだったために袴田さんを相当な長期にわたり不安定な状態に置いてしまったから、このあたりで勘弁してやることにする」と言っているのです。再審の長期化の原因を裁判所のせいにしていますが、再審請求から30年もの間証拠開示に応じなかったこと、さらには再審開始決定に即時抗告を行って抵抗したことで審理の長期化を招いたのは、ほかならぬ検察なのに、です。
当然のことながら、弁護団は記者会見を開いて総長談話に猛反発し、小川秀世弁護団事務局長は10月11日、最高検に抗議書を持参し、談話の撤回と巖さんへの直接の謝罪を求めました3)。同日、京都弁護士会、東京弁護士会も談話を激しく批判する会長声明を発出しました4)。
その後、牧原秀樹法務大臣は、記者会見で「相当の長期間にわたって袴田さんが法的に不安定な地位に置かれたという状況には、私も大変申し訳ないという気持ちを持っている」5)とコメントしました。
また、再審無罪判決の翌日に行われた自民党総裁選挙で新総裁となった石破茂内閣総理大臣は、日本記者クラブでの党首討論で次のように発言しました。「今回は、ねつ造とかそういうことを認めているわけではございませんが、いずれにしても高齢な袴田さんがああいう状況におかれた、ということについては、政府として、一定の責任は当然感じなければならないものと考えているところでございます」6)
法務大臣のコメントは、謝罪の体裁を取っていますが、謝罪の対象となっているのは「長期間にわたって袴田さんを法的に不安定な地位においたこと」です。石破首相に至っては、ねつ造が認定された再審無罪判決が確定しているにもかかわらず、「ねつ造を認めているわけではない」と公言しています。どちらも、拷問に匹敵する違法な取調べや証拠のねつ造といった捜査の問題、無実の袴田さんに対して死刑判決を言い渡し、確定させた裁判所の誤った判断、著しく長期化した再審の経緯に正面から向き合おうとしていないことが窺えます。
3 法改正とともに徹底的な検証を
これまで見てきたとおり、「捜査機関がねつ造した証拠によって無実の人間が死刑に処せられていたかもしれない」という、あまりにも衝撃的な事実が明らかになっても、法務・検察は、そして政府も自らの責任を認めようとしません。裁判所も、袴田さんの無罪判決を超えて、法や制度の不備に言及することはありませんでした。
袴田さんの再審無罪判決と、その後の経緯は、改めて再審制度の不備と一刻の早い法改正の必要性を浮かび上がらせただけでなく、公平中立な公的第三者機関による誤判冤罪原因の徹底的な検証の必要性も突き付けているのです。
【関連記事:連載「再審法改正へGO!」】
・第15回 知られざる再審請求審の手続の実態 その2
・第14回 知られざる再審請求審の手続の実態 その1
・第13回 法改正に向けて動きだした国会議員たち
注/用語解説 [ + ]
(2024年10月22日公開)