事件の風土記《8》

冤罪からの回復を探す旅へ

毛利甚八


  • 2009年12月6日、志布志市で行われた「取調べの全面録画を求める市民集会in志布志」は、ここ数年の大きな冤罪事件の被害者が一堂に会した素晴らしいシンポジウムだった。

 昨年の暮れ、2009年12月6日の午後のことだ。鹿児島県志布志市で「冤罪」をテーマにしたシンポジウム『市民集会 in 志布志』が開かれた。

 題名は「取調べの全面録画を求める!──冤罪被害者が語る密室取調べの実態」。

 会場となったコミュニティーセンター志布志市文化会館には、続々と貸切りバスが到着した。鹿児島弁護士会の肝煎りである。鹿児島市内から多くの弁護士、市民、加えて十数名の司法修習生がやってきた。志布志市民の出足も好調で、大ホールの収容人員1,000席のおよそ8割が埋まったように見えた。

 その出演者の顔触れが凄かった。

 プログラムの報告順に紹介すると、次のような人たちだ。

 足利事件被害者 菅家利和さん。
 甲山事件被害者 山田悦子さん。
 氷見事件被害者 柳原浩さん。
 布川事件被害者 桜井昌司さん。

 これに加え、志布志には、志布志事件の冤罪被害に巻き込まれた13名(うち2名が死去)と、踏み字事件で警察と闘い続けた川畑幸夫さんがいる。メディアでことあるごとに大きく報道される冤罪事件の被害者16名が、九州の南端にある志布志に集まっていたわけだ。

 足利事件は、1990(平成2)年春に栃木県で起こった。4歳の少女が行方不明となり、その日のうちに遺体が河川敷で発見された。菅家さんに疑いを持った警察は、少女の服についていた体液の血液型と菅家さんの血液型が一致したことから、菅家さんの行動を監視するようになった。警察官がゴミ箱から拾ったという菅家さんの体液が、科学警察研究所に送られ、MCA118法というDNA鑑定が行われた。そして、菅家さんのDNAが犯人と一致するという結果が出た。警察に任意同行された菅家さんは自白をしてしまう。宇都宮地裁の一審で自白を翻したものの、判決は無期懲役だった。二審、最高裁ともに一審を支持し、菅家さんは勾留と服役を含めて21年間の身体拘束を受けた。ところが、再審請求によるDNA再鑑定を行うと、犯人のDNAとは違うと判明。菅家さんは2009年6月に釈放され、のちに無罪となった。

 甲山事件は、1974(昭和49)年春、兵庫県で起こった。知的障害児の施設「甲山学園」で、12歳の園児2人が行方不明となり、園内の浄化槽から溺死体で発見された。これを事故でなく殺人事件と見立てた警察は、保母をしていた山田悦子さんを取調べ、自白に追い込んだ。当初は不起訴とされたものの、検察審査会の「不起訴不当」の議決が出たのをきっかけに、神戸地検尼崎支部は執拗に起訴と「無罪判決」後の控訴・上告を繰り返す。事件当時22歳だった山田さんは、1999(平成11)年秋の無罪確定を得るまでに25年間という人生の時間を費やした。

 氷見事件は、2002(平成14)年に富山県で起こった。1月と3月に2つの強姦未遂事件が起こり、警察に疑われた柳原浩さんは自白に追い込まれた。その後、たびたび否認したものの、同年暮れに懲役3年の実刑判決を受けた。柳原さんは刑務所に服役し、2005年1月に仮出獄。その2年後の2007年1月、富山県警察本部は突然「柳原さんは無実だった」と発表した。警察は別人の「真犯人」を捕まえてしまったのである。警察と検察は、捜査当初から「犯人が残した靴跡が柳原さんよりはるかに大きいこと」、1つの事件では「犯行時に柳原さんが電話をしていた記録(アリバイ)があること」に目をつぶって捜査を行い、柳原さんを犯人に仕立て上げていたのだ。

 布川事件は、1967(昭和42)年に茨城で起こった強盗殺人事件だ。捜査に行き詰まった挙句、警察はアリバイのなかった桜井さんと友人を疑う。そして、桜井さんをズボン1本を盗んだという別件で逮捕し、自白を強要した。結局、2人の若者は強盗殺人の罪で無期懲役の判決を受け、仮釈放まで29年間も身体拘束を受けた。

 それぞれの人が演壇に上がり、自分の受けた被害を切々と訴えた。たまたま犯人と疑われたために、取調べという人格を破壊するような修羅場に連れ込まれ、自分の言い分を信じてもらえず、仕方なく嘘の供述をする。法廷で自白を翻しても、裁判官は被告人の心に寄り添おうとはしない。その結果、人生の大切な時期を失った人たちである。

 こうして演壇に立って、自分の過去の苦しみを語ることが愉快なことであるはずがない。それでも、自分の人生に受けた傷を恢復するために、自分の受けた不条理な体験を伝えるために、マイクを握るしか選択肢はないのだ。

 このシンポジウムの進行を見つめながら、私はおそらく過去にも例のない「日本一の冤罪シンポジウム」ではないだろうか、と考えた。まるで大物俳優を贅沢に配した、グランドホテル形式の映画のように豪華な顔触れで、訴求力も強い。

 その夜のことだ。無事シンポジウムが終わり、懇親会の宴も幕が下りた。シンポジウムを取り仕切った鹿児島弁護士会の弁護士さんたちと出演者の人々は、慰労のために志布志のスナックに流れた。酒を酌み交わし、カラオケを歌う。

 桜井さんは刑務所の中で意識変革を体験した。あるとき、この不条理な人生を受け止め、前向きに生きてやろうと開き直った。刑務所の中で作詞・作曲を手がけるようになり、旅に出ると歌を歌ってコミュニケーションを図る。カンツォーネ張りの朗々とした歌声が武器だ。

 菅家さんの大好物はコーヒーだという。コーヒーを飲みながら橋幸夫の歌を歌う。生真面目な表情で、何曲も、何曲も橋幸夫を歌うのである。まるで、それが自由になった証しだというように。

 スナックには冤罪被害者が6人もいた。その笑顔を見ながら、私はふと、こう考えた。菅家さんも桜井さんも、こんなにたくさんの冤罪被害者とともにいるという経験はなかったのではないだろうか? 罪を疑われ、傷つけられ、その国を呪い、抵抗しながら生きる。支援する市民や弁護士たちに囲まれていたとしても、やはり彼らは孤独である。今、志布志にいて、冤罪の傷を知っている多くの人たちに包まれることで、彼らはいつになくリラックスし、癒されているのではあるまいか? 志布志は、共同体を挙げて冤罪と戦ったという意味で特別な場所であり、彼らにとって故郷のような温かさを持っているのだ。

 思えば、たとえ無罪判決が出たとしても、冤罪に傷ついた人の傷を癒し、壊れた人生を修復する道筋はまったく示されていない。

 冤罪の回復を追求する旅を始めたい。

(季刊刑事弁護63号〔2010年7月刊行〕収録)

(2024年08月01日公開)


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