事件の風土記《9》

【甲山事件】冤罪を生む日本の司法をみつめる

甲山事件

毛利甚八


  • 上野勝弁護士(大阪弁護士会)。甲山事件の弁護を1974年の国賠訴訟から1999年の無罪確定まで担当。当時、上野弁護士は20代、同じ26期の弁護士仲間と一緒に弁護活動に取り組んだが、最終的に弁護団は231名に膨れ上がった。事務所近くの旧淀川を背景に撮影。

 甲山事件が起こったのは1974年3月中旬のこと。兵庫県西宮市にある知的障害児の養護施設・甲山学園で2人の行方不明者が出た。まず12歳の女子園児の行方がわからなくなり、捜索をするうち12歳の男子がいなくなった。やがて2人は浄化槽で死体となって発見される。

 山田悦子さんは甲山学園職員として働いており、当時22歳だった。女子園児が失踪した際、山田さんは事件が起きた寮の当直だった。受け持ちの時刻に子どもが失踪し死んでしまったことに責任を感じた山田さんは、学園葬が行われた際に泣き崩れてしまう。その様子を見た警察は、山田さんを犯人だと思い込んでいく。

 事件の半月後、山田さんは兵庫県警に逮捕された。2人目の男子が失踪した時刻に、施設の管理棟にいた山田さんは他の職員と一緒に捜索のための電話をかけるなどしていた。犯行を行う時間はないのだが、警察は意に介さなかった。

 捜査官たちは山田さんを「えっちゃん」と呼んだ。荒々しい威圧は加えず、じわじわと自白に追い込むように暗示をかけていくのだ。

 「(山田さんの逮捕時に抵抗した)園長を公務執行妨害で逮捕する。学園は潰れるかもしれない」「(ある職員が)女性の犯行だと言っている」

 面会に来た山田さんの父親を捜査官が宿まで送り届けた。その時、こんなやりとりがあった。

 捜査官 「車を降りる時、えっちゃんのお父さんはため息をついたよ。この意味は何だと思う? 『ひょっとしたら、うちの子がやったんじゃないか』、そういうため息です」

 山田 「違います。父は信じてくれています」

 捜査官 「えっちゃん。僕たちの捜査は完璧です。人間の行動を見逃しません。あなたの父親は、あなたのことを疑う態度を見せましたよ」

 父までもが疑っていると絶望した山田さんは虚偽自白し、潔白を証明するために自殺未遂を起こす。自白の撤回を求める山田さんに、捜査官は山田さんの出生時のエピソードを持ち出す。出産直後、母親は産後の肥立ちが悪く、夫の名前を忘れたというのだ。その母親の血を受け継いでいるのだから、あなたも健忘症の血筋なのだ。だから事件を起こしたことを忘れているのだ、と。

 「親や祖母からも聞いてない話を聞かされて、とてもショックでした。24時間警察の監視を受けて、警察の流す情報だけを土台に考えていくと自白するしかないんです」(山田悦子さん)

 結局、20日間の勾留を受けた後、山田さんは処分保留のまま釈放されるが、1999年に無罪が確定するまで裁判は25年間続く。

 裁判を闘った上野勝弁護士(2021年逝去)は言う。

 「山田さんの同僚が私に相談されたのがきっかけで、同じ26期の弁護士仲間数人と一緒にやるようになった。初めは不当逮捕を問う国家賠償請求訴訟を起こしたのですが、事件から4年後に山田さんが再逮捕されて、刑事裁判を闘うことになった。当初、警察・検察は甲山事件を労働運動に関係した騒擾事件のようなものと見たんですね」(上野弁護士)

 事件が起こった時期は浅間山荘事件の2年後である。今となっては園児同士の事故だっただろうといわれる事件を、警察はひどく大げさに見立てたことになる。

 1978年、山田さんを再逮捕した神戸地検は殺人罪で起訴する。以後、裁判は次のような経緯をたどる。

 1985年 神戸地裁が無罪判決
 1990年 大阪高裁が破棄差戻の判決
 1992年 最高裁が弁護側上告を棄却
 1998年 神戸地裁が2度目の無罪判決
 1999年 大阪高裁が検察側控訴を棄却

 上野弁護士は、1990年の大阪高裁による破棄差戻判決が裁判を無用に長引かせた原因だと言う。神戸地裁の差戻審は、山田さん以外の職員にアリバイがあることを検証しようとするもので45人もの証人尋問が行われた。それは20年前の記憶であり、無意味な証言が多かったばかりか、愚かな検証にすぎなかった。

 山田さんが園児を連れ出した証拠も時間的余裕もなかったことを確認すれば済んだのである。

 また、裁判の途中で、施設にいた園児の一人が「自分が浄化槽に突き落とした」と重大な証言をしたにも関わらず、検察は自分たちの主張を撤回しようとしなかった。

 裁判は山田さんの人生を根底から変えた。

 「一審の無罪判決が出るまで、たくさんの支援者がいても安心はできていない。結局、権力と対峙するのは自分一人なんですね。引き受けるものがあまりに過酷なので、不安になる。毎夜、金縛りに遭うんです。奈落の底から手が出てきて足を引っ張られて、うなされる。全身にかゆみや発疹が出たり、耳鳴りがして眠れない」(山田さん)

 1985年まで数年間、心身の異変が続いた。

 その不安を解消しようと、山田さんは裁判の合間を縫って、全国の冤罪被害者を訪ねていく。免田事件、島田事件、狭山事件、松山事件などの被告人と会い、エネルギーをもらうのだが、しばらくすると消えてしまう。その繰り返しだった。

 「事件当時は山田さんはごく普通の女の子でしたよ。僕は山田さんに法廷で、裁判官に向かって私は冤罪だ、無実だと全身で表せと言ったんですが、彼女は淡々としていたので僕は不満だった。だけど、その後、彼女は自分をバージョンアップさせていきましたね」(上野弁護士)

 山田さんは25年の裁判を戦うなかで、自分を苦しめた司法の姿を学習し、見極めようと決意するようになる。イェーリングの『権利のための闘争』を読み、「人間の人格陶冶は不正義に抗い闘うことによってのみ創造することができる」と自覚し、自分の過ちを認めない検察の思想に、戦争責任を逃れ曖昧にしてきた日本の歴史との連続性を発見するまでになる。

 多くの冤罪被害者は孤立無援の闘いから始めるものですが、私は事件発生直後から救援組織があり、社会的に守られていました。恵まれていました。しかも支援の傍流にいた多彩な人たちにも助けられました。たとえば在日朝鮮人の哲学者・金定立さんや国語学者の寿岳章子さんのような方に親しくしていただき、一人の人間として思想を持って生きることの大切さを学びました。市民運動にどっぷり浸かっていると、期待される冤罪被害者像を求められます。悲嘆に暮れていて、助けて下さいと泣いているような被告人像を描いているんですね。でも私は同情されるのは嫌です。私は可愛くない冤罪被害者なんですよ(笑)」(山田さん)

 ここ10年間に、筆者はいくつかの場面で山田悦子さんに遭遇している。冤罪事件を考えるシンポジウムの壇上に立つ彼女にはいつもエネルギーと怒りがみなぎっている。

 「日本国憲法に、無罪の推定が明記されていないのよ。これでは日本の司法がまともになるはずないでしょう」

 そんな恐ろしい言葉を放って、彼女はにっこり笑った。

(季刊刑事弁護66号〔2011年4月刊行〕収録)

(2024年08月05日公開)


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