日本の法廷に失望
──高野さんが弁護士登録したのは1982年ですが、実際に弁護士になって、法廷を見たときにはどう思いましたか。
高野 それこそ、衝撃を受けました。自分が考えていた法廷活動とはかけ離れた裁判が行われていた。法廷で書面を朗読して、それを出すというようなことが日常的に行われていました。誰もその朗読を聞いていません。傍聴人には何もわかりません。依頼人である被告人にもわかりません。また、尋問もただ自分が聞きたいことを聞いているだけというような、技術も何もないようなものでした。口頭でやろうという意識は全くありませんでした。書面を書いて出すだけです。
そのことを初めて知ったのは、修習生になったときでした。研修所の教官も、法廷技術は全然意識していなくて、書類を書くこと、起案しか教えません。法廷でどう弁論するか、どう尋問するかは、カリキュラムに全く入っていないのです。「白表紙」と呼ばれる紙の記録を読んで、「弁論要旨を書け」とか、「冒頭陳述を書け」ということで、口頭で弁論する、口頭で尋問するというカリキュラムはどこにもありませんでした。唯一、模擬裁判がありましたが、結局何をするかと言えば、書類を書いてそれを朗読するだけでした。
かなりショックでした。子どもの頃から憧れてきた職業、法廷弁護士という偶像が全部打ち砕かれてしまったわけで、本当に衝撃を受けました。
──1985年に、故・平野龍一先生は「現行刑事訴訟法の診断」という論文(平場安治ほか編『団藤重光博士古稀祝賀論文集〔第4巻〕』〔有斐閣〕収録)を発表し、「わが国の刑事裁判はかなり絶望的である」と言っていますが、高野さんはそれ以前から、日本の裁判に絶望していたということですね。
高野 そうです。刑事裁判が、私が憧れてきた口頭での法廷活動、弁論とは全く違うことを知ったわけです。教科書には「口頭主義」とか、「公開主義」とか書いてあって、書面主義ではないことが謳われています。私は平野さんに裏切られたと言ってもいいかもしれません。私は、平野さんの教科書を読んで勉強したわけで、そこには「書類を書いて出すのが刑事裁判です」とは、どこにも書いてありませんでした。
──高野さんは、そこで絶望し、日本の裁判はもう駄目だというので、留学することになったのでしょうか。
高野 もちろん法廷技術だけの問題ではありません。日本の刑事裁判は圧倒的な有罪率で、否認事件でも99%有罪になります。その数字の意味を全身で味わうわけです。無罪を獲得できた、無罪は間違いないと確信している事件で、有罪判決を受ける、依頼人と一緒に途方にくれるという体験を何度もするのです。もう、どこかで疲れてしまうわけです。
現在も、それはあまり変わらないと思います。刑事弁護を志した若い弁護士にとって、すごくストレスフルです。本当に辞めたくなるぎりぎりまでやったので、日本をちょっと脱出しようかと思って留学したということです。
──そこでの成果はありましたか。
高野 アメリカでは、弁護士は合衆国憲法修正条項に基づいて弁護活動をしています。そうした弁護活動の積み重ねによって、非常に多彩で豊富な憲法判例が生み出されています。そういう判例を作り出してきた弁護士の活動に学ぶべきものがあると思いました。また、私が留学した1986年当時、アメリカのロースクールにはクリニックというものがすでにあり、ロースクールの学生が法廷に立って冒頭陳述から最終弁論までやるカリキュラムがありました。法曹養成教育という面でも、日本の実情とは全く違うやり方があるのを知ったのは、とても大きな成果だったと思います。
日本では「最高裁判所司法研修所」という官僚組織からお墨付きを与えられた公務員(教官)が法律家を養成します。教材も“国定教科書”しかありません。アメリカでは、教育の自由・学問の自由の砦である大学がそれぞれの教員が自由に編纂したテキストに基づいて自由に法律家を養成するのです。“法の支配”の基礎にはこうした法曹教育があるのです。
裁判員裁判を機能させる法廷技術
──TATA創立にあたって念頭に置いていたのは裁判員裁判だと思いますが、法廷技術と裁判員裁判はどう関係しているのでしょうか。
高野 法廷技術は、法廷といういわば1回きりの劇場空間の中で聴衆である事実認定者に対して語り、見せ、そして説得するものです。当事者の活動としては、見せて聞かせる以外にはありません。書類を提出するとか、朗読するというプロセスはどこにもありません。裁判員裁判はそういうものとして構想されました。必然的に、法廷技術をもった法律家がいなければ機能しないのです。
司法制度改革審議会の意見書(「21世紀の日本を支える司法制度」)が出たのが、2001年だったと思います。その数年前から、日本でも陪審制をやるのか、参審制をやるのかという議論がありました。私は、1990年代の中頃、イギリスに行く機会があって、そこでキース・エヴァンスの『弁護のゴールデンルール』という本を、イギリスのインズ・オブ・コート(Inns of Court)というバリスター(barrister、法廷弁護士)の事務所がたくさんある地区にある本屋でたまたま見つけました。まさに日本で法廷技術を必要としている時代に、こういう入門書は必要だと思って、司法制度改革審議会が意見書を出す頃に翻訳を出しました。
ああいう法廷技術がなければ、陪審はもちろん、裁判員制度も機能しないのははっきりしています。口頭で見て、聞いて、わかる裁判をするために、両方の当事者の法律家がそういう技術を持っていないことには始まりません。法廷技術と裁判員制度は切っても切れない関係にあると思います。
──『弁護のゴールデンルール』は今や、法廷技術の基本書というか、バイブルみたいになっていますね。
高野 すごくうれしく思います。
──裁判員裁判を実のあるものにするには、法廷技術は不可欠ということですね。
高野 結局、法廷技術がないと、これまでやってきた書面中心の主張、立証、そして、だらだらとした焦点の定まらない証人尋問になります。裁判員はそういう尋問や書面に慣れていないし、すぐに飽きてしまうと思います。そういうものに慣れている職業裁判官が事実上の主導権を握ることになります。
その結果、評議室の中で何が起こるかというと、学校の教室における先生のように、職業裁判官がこれまでの経験に基づいて、事実認定の主導権を握ります。裁判員は生徒役になってしまいます。市民が法廷に主体的に参加し、その常識を裁判に反映するなどということはできなくなるでしょう。
それを打破するためには、私たちが法廷で、裁判員──普通の市民──にわかる言葉で、彼らが興味を持って事実認定をフォローできるようなものにしなければなりません。それがない限り、裁判員裁判はないのと同じになってしまう。職業裁判官の仕事に裁判員、市民がただ付き合っただけのものになってしまう。裁判員裁判を成功させるには、私たちが法廷技術──口頭で事実認定者を説得できる技術──を身につける以外、絶対にないと思います。
【(中)につづく】
【TATA(東京法廷技術アカデミー)10周年記念インタビュー】
・法廷技術を磨く場を提供して10年(中)
・法廷技術を磨く場を提供して10年(下)
(2024年07月10日公開)