法廷技術への関心
──TATA(東京法廷技術アカデミー)を立ち上げて1)、10年が経ちました。設立の辞には、「本校はわが国の法律家の間に法廷技術を普及させ、その技量を向上発展させ、全国津々浦々に、高度の法廷技術を身につけた刑事裁判の専門家たる法律家を十分に行き渡らせることを目的として開校」し、「この目的を達成するため多くの若い弁護士に法廷技術を研鑽する場を提供する」と宣言しています。
TATAの創立以前から、キース・エヴァンス著『弁護のゴールデンルール』(現代人文社、2000年)の翻訳出版や、2006年発足の日弁連の裁判員制度実施本部・法廷技術に関するプロジェクトチームの座長を務めるなど、2009年実施の裁判員裁判を念頭に、法廷技術の必要性を自覚していたと思います。
弁護人にとっての法廷技術の重要性を、いつ頃から感じていましたか。
高野 子どもの頃からです。
──そんな前からですか。
高野 中学・高校ぐらいから、主として海外のドラマや映画で法廷での弁護士の活動を見て、「こういう仕事ができたらいいな。格好いいな」と思ったのがそもそものスタートです。法廷で口頭弁論をしたり、証人尋問をしたりするのは楽しそうで格好いい仕事だと考えたことが、弁護士を志した動機です。
法廷技術を本格的に意識したのは、大学生になってからです。当時、フランシス・ウェルマンの『反対尋問』(旺文社、1979年。2019年[ちくま学芸文庫])がすでに翻訳されていました。ロイド・ポール・ストライカーの『弁護の技術』(古賀正義訳、青甲社、1974年)も翻訳が出ていました。また、日本の法社会学の先駆けでもある戒能通孝先生の『法廷技術』(岩波書店、1952年)という本もありました。
ただ、その頃の法廷技術の考え方は今と随分違っていて、過去の歴史的な裁判における歴史的な反対尋問とか、弁護士の歴史的な弁論とか、ある意味、武勇伝みたいなものがベースになっていました。そこから職人技みたいなものを抽出するという技術書はありましたが、体系的なというか、科学的な方法論に裏付けられた本格的な技術書は、私が大学生だった頃にはまだありませんでした。
アメリカでは、1972年にNITA(全米法廷技術研究所)ができ、法廷技術を全米に広める活動をはじめました。訴訟の現場ではきちんとした法廷技術を身に着けた法律家が足りない。そのために事件がスムーズに進行しないなど様々な弊害が起きている。そうした状況を改善したいということで、ABA(アメリカ法曹協会)の司法委員会のメンバーたちがNITAを立ち上げました。当時のバーガー最高裁長官をはじめ、全米の現職の法廷弁護士や裁判官、検察官たちがその活動を支持し、また、支援者としてサポートしました。NITAが「体で学ぶ」(learning by doing)という指導方法に行き着き、「4ステップのクリティーク」2)という教授法を確立したのは、もっと後です。正確な時期はわかりませんが、おそらく1980年代になってからだと推測します。
いずれにしても、私が弁護士になった頃には、法廷技術についての理論や科学というものがあり、体系的な指導法があるんだと考える法曹関係者は、日本にはほとんどいなかったと思います。
注/用語解説 [ + ]
(2024年07月10日公開)