一般に、少量で身体や心、あるいはその両方に大きな変化をもたらす物質が「薬物」であり、薬物と食品の区別は本質的に不可能である。アルコールを好む多くの人は、自分自身が強力な薬物を摂取していることを認めようとしないし、愛煙家もタバコが強力な依存性薬物であることを知らない。また1日に何杯もコーヒーを飲む人は自分が「覚せい剤」に依存していることを自覚していない。これらの嗜好品を薬物から排除すべき薬理学的根拠は存在しない。
ある物質を「薬物」と呼ぶかどうかは、しばしば恣意的な判断である。例えばペニシリンのように病気治療にのみ使われる物質と違って、気分や知覚、思考などに影響を与える精神作用のある物質を「薬物」と呼ぶかどうかには確固たるルールはない。しかもそこに快楽というテーマが加わると、善悪の問題がかなり深刻なものとなってくる。
世界を善と悪に分けることは人間の根源的な欲求といえるが、薬物の善し悪しについては、(典型的な例はタバコであるが)それぞれの文化や習慣の中で変化する。つまり、薬物に「良い薬物」と「悪い薬物」があるのではなく、「良い使い方ができる薬物」と「悪い使い方ができる薬物」があるにすぎないのである。
確かに薬物はさまざまな問題を引き起こすが、それに対する中心的な対策がなぜ刑事法であるのか。恐怖心を起こさせることが、悪への選択に決定的な影響を与えることができるというのは素朴な信念であるが、立法はもちろんのこと、国のあらゆる政策判断にエビデンスが求められる時代にあって、確たるエビデンスもなく、わが国でなぜ薬物に対する懲罰的対応が維持され、強化されているのか。
そこで……
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(2024年04月11日公開)