1 再審の世界に早春の嵐が吹いた
今年(2023年)は、再審の世界に早春の嵐が吹きました。元被告人の阪原弘さんが第1次再審請求中に病死した後、遺族が申し立てた「死後再審」である日野町事件第2次再審で、2月27日に即時抗告審の大阪高裁が、大津地裁のした再審開始決定を維持し、検察官の即時抗告を棄却しました1)。
続いて3月13日には東京高裁が、袴田事件第2次再審について再審を認める決定をしました2)。2014年に静岡地裁がした再審開始決定に対し、検察官の即時抗告を受けた東京高裁が2018年7月にこれを取り消し、2020年12月、こんどは最高裁第三小法廷が東京高裁の決定を取り消し、審理を高裁に差し戻すという9年に及ぶ経過を辿った末の、再度の再審開始(検察官の即時抗告棄却)決定でした。
残念なことに、日野町事件では検察官が最高裁に特別抗告したため、再審を認めるか否かの審理がまだ続くことになりましたが、袴田事件では検察官が特別抗告を断念、再審開始が確定し、袴田巖さんが再審無罪となる公算が大きくなりました。死刑事件で再審開始が確定したのは、免田・財田川・松山・島田の各事件で相次いで死刑囚が再審無罪となった1980年代の「死刑4再審」以来、実に36年ぶりのことです。
この歴史的局面を、メディアも大きく報じました。ようやく再審が認められた当事者とその家族や弁護団の喜びを伝える一方で、なぜ、無実の人が冤罪を晴らすためにこれほど気の遠くなるような年月を要するのかに着目し、法制度の不備を指摘する報道も増えたことで、「再審法改正」という言葉が急激に知られるようになってきました。
しかし、日弁連が再審法改正に向けた取組みを始めたのは、実は半世紀以上も前のことなのです。この連載は、再審法改正をめぐる「今」の動きをお伝えすることが目的ですが、第1回ではそのイントロとして、再審法改正に向けたこれまでの日弁連の活動を振り返ってみることにします3)。
2 再審事件に対する日弁連の支援開始
日弁連が再審事件に対する支援を開始したのは1959年に遡ります。徳島ラジオ商事件と吉田巌窟王事件を支援する特別委員会を設置したことが契機でした。しかし、個別の事件を支援する中で日弁連が直面したのは、再審開始要件を定めた刑事訴訟法435条6号の「無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見したとき」という文言が、それのみで確実に無罪が立証できるような証拠がなければ再審が認められないと解釈されていた4)ことによる、再審の高すぎるハードルと、そもそも刑事訴訟法の「第四編 再審」──これが「再審法」と呼ばれているものの正体です──に、たった19条の条文しかなく、具体的な手続規定はほとんど存在しないという現実でした。
3 日弁連最初の意見書
そこで日弁連は、1962年の人権擁護大会において「再審法改正に関する決議」を採択し、「刑事訴訟法第四編中改正要綱」を公表しました5)。これが、再審法改正の具体的提言を盛り込んだ日弁連最初の意見書です。この意見書には、再審請求権者に日弁連会長や各地の弁護士会会長を加えることや、再審開始決定に対する検察官の不服申立てを禁止することなど、7つの改正項目が盛り込まれていましたが、法改正の実現には至りませんでした。
1972年、日弁連は再審事件に携わる弁護士と研究者の交流を目的として「再審問題研究会」を発足させ、西ドイツのカール・ペータース教授を招聘するなど、再審制度についての議論を活発化させていきました。
4 白鳥決定・財田川決定と日弁連「昭和52年改正案」
このような動きを背景として、「開かずの扉」と言われた新証拠の明白性判断に変化が生じます。1975年の白鳥決定6)と翌76年の財田川決定7)で、最高裁は、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」と言えるか(明白性)の判断は、新旧全証拠の総合評価によるべきこと、その判断にも「疑わしいときは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則が適用されることを宣言しました。
これを受けて日弁連は1976年の人権擁護大会で「刑事訴訟法の一部(再審)改正に関する宣言」を採択、翌77年に「昭和52年改正案」を公表しました8)。この意見書には、白鳥・財田川決定の趣旨を踏まえ「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」を「原判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認があると疑うに足りる証拠」に改正すべきことや、再審における国選弁護制度の創設、申立てまたは職権による刑の執行停止、再審請求人の請求による事実の取調べ、再審開始決定に対する検察官の不服申立ての禁止など、今日もその必要性が議論されている注目すべき提案が盛り込まれていました。
5 死刑4再審の衝撃と日弁連「昭和60年案」
1980年代、前述の死刑4再審で再審無罪判決が相次ぎ、4人の冤罪被害者が死刑台から生還しました。無実の者が誤った裁判で死刑になっていたかもしれないという衝撃は大きく、再審法改正問題も社会の注目を浴びました。日弁連は「再審法改正実行委員会」を立ち上げ、1985年には「昭和52年案」をさらに改訂した「昭和60年案」を公表しました9)が、再審法の改正は実現しませんでした。
6 「冬の時代」へ逆流した再審と日弁連
そして、1990年代に入ると、再審は「冬の時代への逆流」10)と呼ばれる厳しい時代を迎えます。白鳥・財田川決定が打ち出した、新旧全証拠の総合評価による明白性判断の手法を限定的に解釈する最高裁調査官解説が相次いで公表され11)、その見解に沿って再審請求が棄却される事件が続出しました。検察官の姿勢も硬化し、再審開始決定に対しては抗告を行って徹底抗戦し、証拠開示についても頑なに拒む姿勢が顕著になりました12)。
このような厳しい情勢のもと、日弁連は個別事件の支援に注力することを余儀なくされました。1991年、これまでの改正案の集大成となる「平成3年案」の公表13)を最後に、日弁連の再審法改正運動は下火となり、1992年3月をもって再審法改正実行委員会は廃止されました。
日弁連の再審法改正運動は、その後20年以上もの間、長い眠りに就いてしまったのです。
(つづく)
*大崎事件第4次再審請求即時抗告審について、福岡高裁宮崎支部(裁判長・矢数昌雄)は6月5日午前11時に再審開始を認めるかどうかの判断をする。──編集部
注/用語解説 [ + ]
(2023年05月15日公開)